【誓願寺と頼朝公産湯池(井戸)】源頼朝の生誕地がこんなところにあった⁉️

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誓願寺【熱田神宮 西門の道路向こう】

↑寺は門後方の駐車場の奥(ビルの後ろにあるため道路側からはパンツちら見えすらも寺が見えない)

誓願寺の概要

創建 1529年(享禄2年)
山号 妙光山
宗派 浄土宗 西山派
別名 誓願尼寺 妙光山 誓願寺
本尊 木造阿弥陀如来座像
開山 善光上人(日秀妙光)
札所等 阿弥陀願所40番、府下地蔵31番

誓願寺の歴史・由来など

熱田神宮 西門の少し先に、誓願寺(せいがんじ)という寺院が今日も素敵に佇む♡

実はこの寺は享禄2年(1529年/室町時代)の創建らしいが、寺が建つ以前は熱田大神宮(熱田神宮)の大宮司「藤原季範(すえのり)」という貴人の別邸があった♡

【ピヨ🐣「藤原季範」とは?】

藤原季範とは、父親が当時、尾張国の国司を担当していた藤原季兼で、母親が尾張氏の一族である尾張員職(おわりかずもと)と伝わる。

貴種の藤原氏と、熱田神宮を創建した宮簀媛(みやずひめのみこと)の血を引く人物でもあるらしく、藤原季範の子孫が代々の熱田神宮大宮司を歴任した。

その藤原季範には、由良御前(ゆらごぜん)と呼ばれる3番目の娘がおり、平安末期のこと、源義朝(源頼朝の父)の正妻として由良が素敵に輿入れした(素敵に結婚しちゃった‥❤️)

1147年(久安3年)、由良は父親の別邸(つまり実家)へ素敵に戻り、(実家に帰らせていただきますぅ!😤ではない)‥あ、まぁ、今で言うところの里帰り出産の末、かの源頼朝を産んだと伝わる。

その時、頼朝卿の産湯に別邸にあった池泉の水が使われたらしく、後世、「頼朝公産湯池」呼ばれるようになる。

このような経緯から、古来、「源頼朝の生誕地」として天下に知られた名所だった。

【ピヨ🐣豆知識】

平安時代、第一子は実家で産むのが通例だったらしく、だからくれぐれも「もぅ!我慢の限界です!実家に帰らせていただきますぅ!😤」‥ということではないことを、オラっと素敵に言及しておく♡

誓願寺は熱田神宮参拝前に禊(みそぎ)をする場所だった

尾張名所図会には、誓願寺の隣に「きよめ茶屋」なる茶屋が描かれており、どうやら熱田神宮の参拝者は、まずはこの茶屋で茶を素敵に一服し、茶で身を清めた後、参拝に向かったという。

なお、きよめ茶屋はすでに無く、現在は神宮境内に移転してい‥申す。えっ

きよめ茶屋の場所に「池禅尼の池殿屋敷」があった!

どうやら、この”きよめ茶屋”が建っていた場所には、池禅尼(いけのぜんに)の居館となる「池殿屋敷」があったらしい。

池禅尼は平忠盛の正室。平清盛の継母にあたる人物。おいては複雑な政争を勝ち抜いた

平治元年(1159年)、平治の乱にで清盛が当時の源氏の首長だった源義朝に勝利し、翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男の頼朝(当時は素敵に13歳)が平宗清(池禅尼ならびに忠盛の五男「平頼盛」の郎党)に捕えられた。

この時、池禅尼は平清盛に対し、幼少の頼朝卿の助命嘆願を素敵に行い、その代わりに自らは断食をし始めた。

池禅尼の思いを汲んだ清盛は、已む無く頼朝の処刑を取りやめ、伊豆国への流罪という減刑を下知した。

室町時代に誓願寺が創建される!

前述のとおり、享禄2年(1529年/室町時代)になると、荒廃していた熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡地に、熱田上人が、当地を支配していた戦国大名「織田信秀」の支援を得て誓願寺を素敵に創建した。

【ピヨ🐣「熱田上人」とは?】

熱田上人は浄土宗の尼僧で、「日秀妙光(にっしゅう みょうこう)」とも呼ばれた人物。

吉野城 (尾張国)城主の吉野右馬允の妻という貴人でもあった。

日秀妙光尼は、元亀元年(1570年)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)より上人号を勅賜され、「熱田上人」と呼ばれる。

後に「天下の三尼上人」の一人とまでなった人物。

豊臣家が関与した誓願寺

天正18年(1590年)には豊臣秀吉の母大政所が参詣したと伝えられる。

慶長5年(1600年)の火災で灰燼に帰すも、ほどなくして豊臣秀頼の命で再建される。

江戸時代、代々の尾張藩主よりの信仰があったらしく、山門などを修営、寺領の寄進も受けていた。

かの松尾芭蕉も熱田神宮参拝のみぎり、当該、誓願寺のほか、景清社(熱田区神戸町)に訪れたことが旧記に記される。

誓願寺に天下の徳川紋(三つ葉葵紋)を掲げることができた理由とは?

江戸時代、三つ葉葵の紋所の使用を許されたのは徳川譜代、つまり一族、あるいは一族の血縁にかぎられていた。

現在の誓願寺本堂と山門には三つ葉葵の御紋が据えられており、これは誓願寺の開祖たる熱田上人が、かつて今川氏(戦国大名)の人質だった頃の竹千代(徳川家康)の教育係だったこと、それと徳川御三家 筆頭の格付けを有した尾張藩の影響が大きい。

太平洋戦争の名古屋大空襲で境内が灰燼に帰す

昭和20年(1945年)6月9日、太平洋戦争の名古屋大空襲によって誓願寺本堂などが灰燼に帰す。

このとき、境内にあった「頼朝祠」のほか、「源頼朝公産湯ノ井戸」も素敵に罹災し、焼失・破壊と相なった。

戦後、金の葵の御紋を付けた鉄筋鉄骨コンクリート造で本堂が再建されたほか、それまで埋没していた「源頼朝公産湯ノ井戸」が地元民らの協働によって素敵に復興された。(但し、頼朝祠は再建されず。トホホ‥)

なお、戦前の本堂が建っていた場所は現在は駐車場、本堂は駐車場奥、隣のビルの影に隠れ、山門だけが以前の場所に再建されたので、特異な配置の境内となってい‥ます。(耐)ふぅ

現在、山門前には源頼朝誕生地である事を示した名古屋市教育委員会が建てた案内板(下記)と、伊藤萬蔵が寄贈した「右大将頼朝公誕生舊地」の石碑(上掲写真)があるほか、境内にはや「頼朝公産湯池」の碑もある。

写真(画像)は名古屋市観光協会より

山門前の案内板の内容

源賴朝出生地

この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、
藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、
身ごもって久安三年(二四七)熱田の実家に帰り、
この別邸で頼朝を素敵に生んだといわれる。

享禄二年(一五二九)別邸跡に、妙光尼日秀、世にいう善光上人(熱田上人)により誓願寺が建てられた。
妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来坐像である。

名古屋市教育委員会

誓願寺境内の「産湯の井戸」について‥

素敵に前述したように、誓願寺境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸がある。

しかし、かつては井戸ではなく池泉(池)だったらしく、この池水を汲んで頼朝卿が生まれた時の産湯に使用したらしい。

そのことを示すのが上掲写真(画像)の「頼朝光産湯池」の石碑になる。

しかし時代を下りながら藤原氏の別邸ではなくなり、池も素敵に埋没し、荒廃していた別邸跡地に1529年(享禄2年)に誓願寺が創建されることになる。

星霜経た太平洋戦争(第二次世界大戦)後、地元民の「頼朝の産湯に使用した池が無いことが惜しまれる」という声が上がり、池ではないも、「源頼朝公産湯ノ井戸」として復興され今日に到る。

えぇっ?!源頼朝の生誕地は2つ存在する??

この誓願寺の周辺一帯は平安時代末から鎌倉時代までは熱田大宮司家の下屋敷が数多く立ち並んでいたそうな。

殊に、実際に宮司として熱田神宮を総括していたのは、大宮司に仕える権宮司家だった尾張氏であり、大宮司家たる藤原氏は官職に就いていたので京師(京の都)の本邸で生活していた。

以上のことから由良御前が実は京都で頼朝卿を産んでいたという説もあり、頼朝卿の生誕地については名古屋熱田説と京都説とがある模様♡

誓願寺の場所(行き方)

  • 最寄り駅:地下鉄名城線「神宮西」駅

誓願寺へは、地下鉄・神宮西駅の3番出口から素敵に徒歩約2分♡

熱田神宮 西門へは、徒歩4分程。

誓願寺のINFO

住所:名古屋市熱田区白鳥2-10-12

公式サイト:素敵になし

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