【まず目が行かない!】名古屋城の観光の真髄!隠れた意外な見どころや楽しみ方を‥‥‥知りたぃ?

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このページでは、名古屋城のあまり知られていない隠れた見どころを混じえた観光スポットを紹介してい‥‥申す。ディャハっ

【その1】名古屋城の掘には「鹿」がいる??

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名古屋城に来て驚いた方も多いと思われますが、ぬぅあんと!名古屋城の内掘には「鹿」が生息してい‥‥‥申す。ギャヒェっ

無論、本物の鹿。

ただし、残念ながら奈良鹿のように触れ合うことはできない。

実はこの鹿たち、厳密には市の管理の下、飼育されている鹿になるとのこと。

江戸時代には余興の1つとして名古屋城内で鹿が飼われている様子を示した図絵があることもあり、特に行き交う女性に大人気だった。

現在では建物などを破損させるなどのイタズラが多いことから掘で飼育されている。

当時では50余頭もいたようだが、現在では2頭のみになっている。

ところで‥‥なぜ掘りに水がないのか?「空堀」の理由

‥‥‥という疑問をもった方も多いだろぅが、実はこの空堀、ワザと貯水されなかったとすれば驚かれますかぃ?

実は空堀も城を防御する上では重要なものだった。

現在の名古屋城にはすでに無いが、往時は「多聞櫓(たもんやぐら)」と呼ばれる「武者走り」を拡大したような長屋のような図太く長細い通路があった。

多聞櫓の「多聞」の名前の由来は松永弾正の多聞山城に用いられていたことに由来。

⬆️江戸時代後期の大坂城。多聞櫓が櫓の間に設置され城壁と化している(引用先:https://ja.wikipedia.org/

名古屋城の多聞櫓は天守の四隅にそびえる隅櫓に連接され、天守を護る城壁のように取り囲むように設置されていた。

その多聞櫓の前に築かれたのが空堀。

実は多聞櫓には無数の狭間(さま)と呼ばれる小さな穴ボコが空けられていたのだが、狭間から鉄砲の筒先を出して空堀に侵入してきた敵に対し、一斉射撃を食らわすことができるように設計されていた。

つまり、名古屋城の空堀とは往時の多聞櫓の面影を匂わせるものとなる。




【その2】えぇっっ?!名古屋城には「ホタル」も生息している??

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これは地元民以外はあまり知らないかもしれない。

実は名古屋城にはホタルが生息している場所がある。

その場所というのは、かつての名古屋城の三の丸。

名古屋城の三の丸の場所は現在では城外。外堀沿いに見える「護国神社」や「本町橋」の周辺。

古来、「ヒメボタル」という種類のホタルが往古のままの姿で生息している。

⬆️三の丸から本町橋周辺の地図
⬆️本町橋(交差点)の景色

名古屋城の周りは栄や名駅という名古屋一の繁華街があり、日本三大都市の賑々しさを呈している。

お堀の周りの景観も往時とは打って変わり、道もアス‥フぁるとュっ!‥、もう1度ぉ、「ぅぇアスふぁルとュっ!」(訳:アスファルト)‥‥が舗装されていて、車やバイクがビュンビュンと飛び回っている。…..飛び回る?…フィフス・エレメントかぃ!

名古屋城のヒメボタル

通例のホテルは4000円から5000円のところが多‥‥‥ってなんの話や。‥‥こホンっ!、ホタルっ!は、「源氏ボタル」や「平家ボタル」が多い。たのむでホンマ

しかし、名古屋城のホタルは「ヒメボタル」と云われる稀有な種類のホタル。

ヒメボタルは源氏ボタルや平家ボタルとは違って水辺には生息せず、陸上で生息できるホタルとされる‥‥が、名古屋城の堀には水があるではないか?‥‥はてさて。オホっ

ヒメボタルの大きさは源氏ボタルや平家ボタルよりも、ひときわ小さいサイズになるので、たとえケツ(尻)が光っても数匹発生しただけでは分かりづらいだろぅ。

‥‥となると、やはりホタルが大発生する見頃時期に訪れないと、西新宿駅界隈の心が荒ぶように点滅するネオンのような、ケツライトを発光させたホタルが無数に飛び交う、夜のとばりにはならないだろぅ。….長っ

名古屋城・外掘のホタルの見頃時期
  • 例年5月中旬から6月中旬頃
  • ピークの見頃:5月末から6月上旬
ホタルが見られる時間

夜のトバリが降りる頃。目安は上記、見頃時期の夕方17時頃。(ホタルは周囲が暗くならないと舞い飛ばない)

夏の夜空を舞う美しい君の笑顔のようなホタルが見れるかもしれまっしぇん💖

【その3】清正石

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  • 高さ:約2.5m
  • 横幅:約6m

名古屋城の石垣には、まるでエジプトのピラミッドで見られるような「清正石(きよまさいし)」と呼ばれる巨石が石垣の下部に据えられている。

この石は他のどの石よりも明らかにサイズ感が段違いで異なり、パッと見、アクシズの地球落下後の残骸となる巨石のようにも見える。….アクシズ?ここでガンダムネタきたか。

清正石の名前の由来

清正石の名前の由来は名古屋城の石垣普請(ふしん/工事のこと)を担当した加藤清正の名前に因んだもの。

しかしながら、実際にこの清正石がある場所の工事を担当したのは、筑前国福岡藩初代藩主の「黒田長政」。

‥‥ということは、「長政石」であってもオカシクはないのだが、これは名古屋城の普請総奉行として加藤清正が抜擢され、彼に一任されてしまったために後世にて「清正」の名前が付され「清正石」とされたと云われる。

長政と清正の仲

話は少し逸れて、長政と清正の仲について言及すれば、太閤秀吉の時代になると天下が1つに収まったことで、それまで武勲で功名を立てて自らとその郎党を繁栄させてきた、いわゆる「武断派」の時代は半ば終焉を迎えたと囁かれた。

それゆえ国づくりに重きが置かれると、石田三成に代表されるような政治力をもった文治派(頭脳派)の能臣が発言力をもつようになり、武断派の郎党たちとはシバシバ意見の対立が生じた。

その武断派の中でも、きわだって名を馳せた武将が7人いて、俗に「七将」と呼ばれたのだが、その七将の中に長政と清正は筆頭として名を連ねていた。

また、双方ともに同じ九州に拠点を置いたこともあり、仲は非常に良好だったとされる。

この石がいつ頃から清正石と呼ばれるようになったのかは判然とはしないが、それゆえ長政は「清正石」と呼ばれることに対してもなんの違和感も感じることなく、むしろ讃える形で素直に受け入れることができたのであろぅかと。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ‥‥‥

 

【その4】石樋(いしどい)

名古屋城の石垣をよく見ると何やら飛び出たものが見えます。
この物体、実は城を維持する上でかなり重要な役目を担っているものですが、なんかのかご存知ですか?
これ、「石樋(いしどい)」と呼ばれるもので城内に溜まった水などを排水するための装置です。

飛び出している理由が分かりますかぃ?
なんでも石垣を伝って水をそのまま垂れ流すと石垣を形成している地盤にゆるみが生じ、崩壊するからなんだとか。
これを「石垣が孕む(はらむ)」という言い方もします。

たかが石垣。されど城ひいては国の礎とも例えられる「土台」。
城を建てた後も維持していくことの些細な気苦労という名の工夫が垣間見える場所となる。

通常、石樋地上より3〜5mくらいの位置に付けられているものなので視認はしづらいのだが、名古屋城の石樋は間近で見ることができまする。…マジか?(”間近”だけに)

【その5】雨樋(あまどい)


本丸北側・御深井丸の東側から本丸大天守を見ると何やら水色の紐ようなものが、千鳥破風から天守台へ向けて垂れています。
実はこれ銅板で覆われた雨樋です。
驚くのはこの雨樋、近世代に設置されたものではなく、8代藩主・宗勝の御代である1752年(宝暦2年)に実施された「宝暦の大改修」の時に付けられたもの。
現在の名古屋城は以前の名古屋城を忠実に再現して復原されていることから、雨樋もそれに倣い取り付けられたのだろぅ。
復原して再造された証拠ともなり得る貴重なもの。

【その6】名古屋城「城内きしめん亭」

いや〜、しかし名古屋城の城内は広い!

‥‥ということで、名古屋城城内には名古屋名物の「きしメぇ~ん!(訳:きしめん)」を提供している店がいくつかある。

そのうちの1つが「城内きしめん亭」と呼ばれるお店。

店の場所は東門もしくは正門から二の丸へ入り、双方の入口を目指して歩いた先の中間地点あたり。

だだ、店を運営しているのは、名古屋市街で見かけるような「きしめん専門店」ではなく、名古屋城(名古屋市)。

名古屋城に訪れたら是非、お腹をペぇコペぅぇコにして「きしめん亭」へ訪れてみてください。

 オススメはお城セット:1250円

名古屋城きしめん亭の詳細・予約

この「きしめん亭」の他、名古屋城にはもう2店舗、食事する施設がある。




【その7】剣塀

「剣塀」は「つるぎべい」と読み、これは忍者(忍び)封じのための防衛策の1つ。

忍者は殿ぉっ!を急襲して命を狙うため、夜もふけた頃、殿ぉぉ〜っ!の寝所を目指していとも容易く石垣をかけ登り申す。ギョハっ

そこで特に狙われやすい天守閣と小天守閣とを連絡する”橋台(きょうだい/橋のたもと辺りの橋を支える部材)”の西側壁面および、不明門北側壁面の軒桁(のきげた/屋根と横壁が交わる隙間部分)に鋭く尖った頑強な約30㎝の槍の矛先を設置している。

【その8】アリゲーターガー

「アリゲーターガー」とは、環境省に「特定外来生物」に指定されている大型の肉食魚のこと。

なんとぉぅっ!名古屋城にはこの大型肉食魚が2匹もいることが明らかにされている。

名古屋城のお堀にアリゲーターガーが生息している理由

近年の熱帯魚ブームなどにより、外来魚を飼育する個人が増加したが、水槽で飼育できない大きさになったなどの理由で付近の池や川へ放流する輩がいるため。

日本の池・川などに存在しないハズの外来魚を放流してしまうと、日本の魚を捕食したりするなどで元来、成り立っていた食物連鎖が崩壊し、別の問題が生じてくる。

そこで危機感を募らせた環境省および地元の人たちによって、この外来魚アリゲーターガーの捕獲作戦が敢行されることになった。

しかし、たかが魚の捕獲なれど、ある程度人が行動しやすいくらいの水位を実現するため、お掘りの水を抜いたりするなどで作業車が立ち入り、道路には警備員が立って交通整理がはじまるなど、大層な有り様。

‥‥ということで、そんなこんなで2017年5月にそのアリゲーターガーが見事捕獲されたというニュースまで流れたのだが、捕獲されたのは1匹。

ということは2匹の目撃情報が確かなのであれば、もう1匹まだお堀に残っていることになる‥‥はてさて。

捕獲されたアリゲーターガーは見られる!

捕獲されたアリゲーターぐぅぁ~!!オるるるラぁぁ!!ガルルルルっ!は、愛知県碧南市の碧南海浜水族館へ運び込まれ、全長138㎝であることが明らかにされています。以後は同館にて展示されてい‥‥‥申す。ギャホェっ

⬆️当館には2匹のAGが標本として展示されているが、もう1匹は地元で採れたもの。

 

【その9】必勝!カヤの大木

  • 樹齢:約600年
  • 幹周:8. 1m
  • 樹高:15m

西の丸御蔵城宝館前には、カヤの木が生い茂っているが、ちょっとした由緒を持った木。

それゆえ、Googleマップや名古屋城の公式マップにおいてもこの木が紹介されている。

おそらく名古屋城のパンフレットをもらっても、じっくりクリリン気円斬なほどにジックリと見る人は少数だと思われるので、この木のことを紹介しておくとしよぅ。 どゆ意味や

なんでも、当時まだこの地に那古野城(なごやじょう)という城が建っていた頃から、生い茂るカヤの木とのこと。

那古野城が建っていた頃は1500年代なので、ざっくりクリリン気円‥‥2発はやめとこか。オホっ

‥こホンっ!

ざっくりと計算しても軽く500年以上前にはなるのだが、調査によれば樹齢は軽く600年あると見られている。

当時、那古野城は今川氏の西上の拠点として機能していたが、その後、織田信秀という武将がこの城を奪い取って拠点にしている。

織田信秀という名前が出てきてポ〜ン‥ではなく、ピぃ〜ン!と来た方は、なかなかの歴史マニア。

そぅ!現代の恒久平和の礎を構築した織田信長公の父親であり、信秀も信長公に那古野城を譲っていることから、ひょっとしたら信長公もこの木を知っていたのかもしれない。

名古屋市内で唯一の国指定の天然記念物

このカヤの木は歴史ある樹木ということで、名古屋市内で唯一の国指定の天然記念物だったが、残念無念ことに太平洋戦争の名古屋空襲によって罹災する。

もぅ枯死したと諦められていたが、樹勢がまだあることが明らかにされ、現在も部分的に焼けただれた痕を見せながらも生長をつづけている。

「必勝」と付されている理由

なんでも初代尾張藩主・徳川義直は大坂の陣へ出陣する際、勝利を願ってこのカヤの木の実をもぎとって膳に盛り付けたと云われる。

大坂の陣の後も吉兆の素として、毎年、正月の祝膳に盛り付けたといぅ。

それゆえ、現今に至っては祈って祈願すれば勝負運の利益を得られるとして、俗称で「必勝のカヤの木」と呼ばれ、親しまれている。

【その10】名古屋城の御朱印がもらえる??

なんと!名古屋城でも御朱印をいただくことができる‥‥のだが、正式には「登城記念府」や「城郭符」と呼ばれるもの。キャキャキャキャっ

  • 名古屋城の御朱印の値段:300円

御朱印(御城印)がもらえる場所

天守閣が立ち入り禁止になるまでは天守閣7階の売店でもらえた。のだが、現在、天守は立ち入り禁止になっているので以下の場所でもらうことができる。

正門付近の売店

場所(地図)

  • 売店の営業時間:9時から17時30分(名古屋城の営業時間に準じたもの)
  • 定休日:名古屋城の営業日に準ずる

本丸御殿前の売店

本丸御殿内部の売店ではなく、本丸御殿の外側、正面に見える売店のこと。

  • 売店の営業時間:9時から17時30分(名古屋城の営業時間に準じたもの)
  • 定休日:名古屋城の営業日に準ずる

御城の御朱印は名古屋城以外でももらえる!

ちなみにこのような御城の御朱印は名古屋城だけではなく日本全国の有名な城に行くともらえる。以下は一例。

  • 例:二条城、松本城、大阪城、彦根城 …etc

【その11】石垣に象形文字のような模様がある??(石垣の刻銘)

この名古屋城の石垣造りには多数の大名が参加しており、その中でも豊臣方の大名が特に多く、約20の大名が参加しています。

それぞれに大名は役割分担としてそれぞれの担当する場所を決められ、その際、自身が運び入れた石であることが分かるように石に団子や扇子、軍配の絵柄を刻んでいます。

たとえば‥‥

刻名:「田中筑後守」(忠政)(筑後国柳河藩主)

  • 場所:本丸御殿
刻名:「加藤肥後守(清正)」(肥後熊本藩主)

  •  場所:本丸天守台(隅石)
刻名:「3つ串団子の形」

  • 普請者:前田肥前守(利長)」(加賀藩主)
  • 場所:正門付近、本丸

このように石垣に名前を刻んだ理由は大名間のトラブルを回避するためなんだとか。泥棒が入って盗まれたこともあったとのこと。

石垣を是非!ジックリとご覧になってみてください。




【その12】加藤清正の石曳きの像

加藤清正は名古屋城の天守台の石垣を築いたおり、作業員を先導し、指揮を上げ、工期が短期間で済むように自らが石垣に使用する石の上に乗って音頭を取っていた姿を再現した像です。

石を曳く際は、修羅(しゅら)と呼ばれる木の棒を敷き、その上に巨大な石を乗せて多人数で曳いたのです。

ちなみに清正さんの像は名古屋城正門の方にももう1つあり、こちらの像は熊本城に置かれている像とソックリくりくりコノヤローなほどソックリな像になりまする。どゆ意味や

熊本城・御幸橋南詰にある清正さんの像↓

【その13】シャチホコ(鯱鉾)

知ってましたか?

名古屋城のシャチホコにはオスとメスの概念があることを‥。

なぎゃやジョー(訳:名古屋城)では、北がオス。南がメス。と説明されているので‥‥つまりは、左が雄。右が雌ということになりまする。

⬆️オス(左)

⬆️メス(右)

名古屋城の金シャチは江戸時代に建造された当初から純金のシャチホコが取り付けられていた。

後世ではこの金のシャチホコを伝説の大泥棒と称される「柿木金助」が大凧に乗って金の鱗(うろこ)を掻っ攫う(かっさらう)といった話まで出回ったほど、想像を絶するほどに美しかったとか。

この話は後に歌舞伎の演目にもなったことから一躍有名になり、現在に至っても至る場所で語り継がれている。

メスのシャチホコは明治時代に海外の博覧会に出陳された。これを機に様々な場所へ出陳されることになるのだが、金鯱は名古屋城にあってこその金鯱‥‥‥ということで名古屋城に戻された。

しかし、その結果、不運にも大空襲に見舞われ、焼失するという結果に至っている。

よって、現在のシャチホコは江戸時代のシャチホコを忠実に再現して作られたもの。うきゃきゃ

名古屋城には金のシャチホコを近くで観れる場所がある!

この金のシャチホコは名古屋城正門のあたりにレプリカが展示されている。

レプリカながらオリジナルを忠実に再現して造立されており、サイズ感やディティール感を、つぶさに知ることができる。ぜひ!

【その14】西の丸御蔵 城宝館

「西の丸御蔵 城宝館」とは?

2021年4月16日(金)、名古屋城の西之丸エリアに新たに名古屋城の見どころとなる新名物「西の丸御蔵城宝館(にしのまるおくらじょうほうかん)」がプレオープンしてい‥‥‥申す。ガチョ〜ンっ! …ま、まさかここで伝説の谷啓 登場?

なお、正式なオープンは2021年11月1日(月)であり、第一回目の催し物のテーマとして「名古屋城誕生」という特別展を開催してい‥‥‥まする。

  • 名古屋城誕生(開館記念特別展):2021年11月01日 ~ 2021年12月19日まで

記念すべき第一回目の特別企画展では、本丸御殿内の壮麗な障壁画や、名古屋城普請の際に使用された貴重な「名古屋御城石垣絵図」などが展示されてい‥‥‥申す。ガチョ‥ やっぱやめとこ オホっ

「御蔵」とは?

「御蔵」というのは、米蔵をイメージして建てられた建造物だからでゴザ〜る。

なにを隠そう、西之丸エリアにはかつて米蔵が立ち並んでいた場所。その西之丸にあった三番蔵と四番蔵の外観を再現した展示・収蔵施設でゴザる。

その新造した米蔵に「御蔵」と付し、名古屋城の文化財を含む宝物などを所蔵&展示する「情報館」として「城宝館」と言い換えて一般公開してい‥‥まする。(フェイント)

【その14】隅櫓(西北隅櫓・西南隅櫓・東南隅櫓)の一般特別公開

⬆️上掲写真は「西南隅櫓」

名古屋城には戦災を免れた江戸時代より伝わる西北隅櫓、東南隅櫓、西南隅櫓と呼ばれる重文指定の3つの隅櫓が完存している。

これら3つ櫓は1612年〜19年頃に建造されたもので、物見台(見張り台)を主目的としながらも食料や武器の備蓄庫として機能していた。

「隅櫓(すみやぐら)」とは城郭の隅に建てた櫓のこと。櫓の起源は古く、縄文時代の村落にも木組みの見張り台が存在したことから、すでに上古時代から物見台(見張り台)として用いられていたことが分かる。

中世になると「矢倉」「矢蔵」などとも記され、物見台の機能を主としながらも矢を保管しておく場所、つまり、矢を射るための防衛拠点として機能してい‥‥申した。ギャホ〜ンっ

名古屋城の隅櫓には「石落し」などの力攻めに対抗できる仕掛けや、「狭間(さま)」という鉄砲の筒先のみを出して射撃できる貿易機能が配備されるなど、もはや単なる物見櫓ではなく城郭の重要な防衛拠点ともなっている。

なお、長野県松本市の松本城(国宝)に見られるような「月見櫓(つきみやぐら)」なる、月見をすることを想定して改造された粋な櫓も存在し‥‥‥申す。ギャハっ




【その15】名古屋城では春夏秋冬それぞれに”祭り”がある! 

名古屋城では春は桜祭り‥‥などといったように、春夏秋冬それぞれの季節に祭典(祭り)が開催されまする。

祭典の開催期間中は普段お目にかけれないステージイベントや茶席や隅櫓の特別一般公開、火縄銃・古武術の実演、その他、名古屋城、名古屋の”ゆるキャラ”が登場して記念写真撮影ができるなど、楽しさが倍増する。

また、有料にはなるが体験イベントも企画されていて、たとえば夏祭りでは金魚すくいや輪投げ、期間限定オープンの食堂での暴れ食いなどが楽しめる。

以下に名古屋城の春夏秋冬それぞれの祭りのおおまかな期間を掲載しておくとしよぅ。オっホっホ

名古屋城の隅櫓が公開される確率が高い期間

名古屋城の春祭り(桜まつり)

期間:例年3月20日頃〜5月5日頃まで
2021年度の実績:3月20日〜5月5日まで
隅櫓の一般公開:3月27日(土)〜4月4日(日) まで実施

名古屋城の夏祭り

期間:例年8月7日頃〜8月15日頃まで
2021年度の実績:8月7日(土)〜8月15日(日)まで
隅櫓の一般公開:8月7日(土)〜8月15日(日)まで実施

名古屋城の秋祭り

期間:例年10月24日頃〜11月23日頃まで
2021年度の実績:10月24日(土)〜11月23日(月/祝)まで
隅櫓の一般公開:10/31(土)~11/8(日)まで実施

名古屋城の冬祭り

期間:例年1月1日〜1月10日頃まで
2021年度の実績:1月1日(金/祝)〜1月11日(月/祝)まで
隅櫓の一般公開:1月2日(土)〜11日(月・祝)まで実施

名古屋城本丸の見どころ

本丸御殿

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本丸御殿とは藩主の生活空間や政務を執り行う場所であり、天守閣の内側にあるものではない。(天守閣の付近の別の建物です)

名古屋城の本丸御殿は、1615年(慶長20年)に徳川家康公の命令によって創建された絢爛豪華な建造物群です。総面積3,100㎡(四辺約100m、約900坪)の中に13棟もの建物が建てられており、これらの建物を総称して「本丸御殿」と呼称される。

1634年(寛永11年/江戸時代)に差し掛かると、将軍が都などの遠方へ赴く際に使用する「将軍専用の間」として造り替えが行われ、上洛殿や御湯殿書院などの増築が行われてい‥‥‥申す。ディヤハっ

名古屋城本丸御殿内部地図

1930年(昭和5年)には、世界遺産「二条城(京都)」と並ぶほどの近世代における城郭御殿と讃えられ、念願の国宝指定を受けるまでになった。

しかし残念無念なことに1945年(昭和20年)5月14日に太平洋戦争の空襲(名古屋大空襲)で全焼している。

現在の名古屋城は創建当初の城容を忠実に再現するため、わざわざ江戸時代の古図面や明治時代に撮影された城の写真をもとにして、2009年(平成21年)1月から10年構想の復元工事が開始された末に完成されたもの。

2013年(平成25年)5月には「玄関」と「書院」、次いで2016年(平成28年)6月には「対面の間」が完成を迎えて、順々に公開された。

2018年(平成30年)6月8日には、なんとおぅ!ついに最後の最終第4コーナーを回って府中の直線に差し掛り、上洛殿、湯殿書院、黒木書院、上御膳所が次々に完成を迎え、ごぼう抜きをカマしながら、無事に8馬身差での1着ゴールを決めています。(訳:無事に一般公開されています。)ふぅ、意味不明

名古屋城 天守閣(大天守・小天守)

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天守閣には殿ぉぉぉっ!が常に着座しているイメージがあるが、実はそうではない。

江戸時代になるとこの名古屋城が代表例とされるように殿ぉぉぉぉ〜〜〜っつ!!!‥‥ゼェハァ(息苦)‥‥‥は天守閣ではなく、その下に築かれた平屋建ての本丸御殿に居処した。

大名自身が本丸御殿に居るものだから、用事のある者は本丸御殿を訪ねるようになる。そうこうしているうちに本丸御殿も対面の間などが設けられるようになり、やがて国家の大事を決定づける政治も本丸御殿で行われるようになった。

それゆえ、天守閣は物見台としてや権威を示すための象徴と成り果て、江戸幕府がようやく長久太平の世の中枢に君臨した頃、長らく天守は再建される機会を失った。

よって現在見ることのできる天守閣は1959年(昭和34年)に再建された時のもの。

天守閣は地下1階2重3階の小天守閣と地下1階5重7階の大天守閣から構成されており、これらの小と大の天守閣が繋がっていることから「連結式天守閣」とも呼称される。

大天守閣の内部は展示コーナーとなっており、名古屋城に伝わる様々な展示品を見ることができる。

名古屋城の天守閣は老朽化のため入場禁止になった!

名古屋城の天守閣は老朽化のため倒壊の懸念が浮上したため、補強工事が急務とされ、2018年5月7日より入場禁止にすると名古屋市が正式発表した。

再公開の期間は未だ未定。

名古屋市は2022年までに木造天守の復原工事を目指しているが、様々な問題が生じ、現在、復元工事の進捗は暗礁に乗り上げ座礁中。

なお、天守閣以外は観覧可能なのでご安心を。オホ

天守閣の入場禁止 概要

期間:平成30年5月7日(月)から木造天守閣竣工まで
区域:名古屋城天守閣(小天守閣・大天守閣)




扇勾配の石垣(天守)

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  • 高さ20m

名古屋城の石垣は、藤堂高虎と並び称されるほどの築城の名手と謳われた加藤清正が総奉行を務めたとだけあって、美しい曲線美を世にさらしている。

ほかに加藤清正が手がけた城としては、自らの居城でもあった九州・熊本城が有名。

扇勾配

名古屋城天守の足元の石垣は「扇勾配(おうぎこうばい)」と呼ばれる積石法で造成されているのだが、上掲写真をご覧になれば分かるように実に美しい曲線美をしている。

なんでも、このような石垣をわずか3ヶ月で完成させたと云ぅのだから、加藤清正という人物が築城に関しては相当な手練れであった様がうかがえる。

異名「三日月石垣」

ちょぃと再度、上掲写真をご覧になってみて欲っしっぅぃ。

この石垣角の曲線美をよ〜く見ると、三日月のように見えなくもない。

それゆえ、この石垣は「清正流・三日月石垣」という異名をも付された。

江戸時代の当時、清正が造成した石垣は名古屋城を語る上で、語り草にもなっていたのであろぅ情景をよぎらせる。

【あまり知られていない!】竹中工務店と名古屋城の深い縁

現在、名古屋城の再建工事を主だって担当しているのが「竹中工務店」。

実はこの竹中工務店、現在では本社を大阪に構えることから、開業地がこの名古屋だったという事実はあまり知られていない。

そもそも竹中工務店の初代社長である竹中藤兵衛が江戸時代の当時、名古屋城築城を機とし、開業したのが竹中工務店だったと云われる。

どのような経緯があって竹中工務店が工事を担当することになったのかは分からないが、なんにせよ竹中藤兵衛の子孫が再び名古屋城造営工事に携わっているという事実が奇譚に思えてならなぃ。

【疑問に回答】名古屋城の屋根瓦が緑色をしている理由って知ってる?

名古屋城の瓦は何故かゼカぜかコノヤローなほどに緑色をしているが、理由が分かりますかぃ?

実はこの緑色の正体は一般的に「緑青(ろくしょう)」と呼ばれるもの。

ここまで言えばその道を極めた方であればピーン!とキタぁーーー!!‥‥かもしれませんが、なんとぉぅ!この瓦に使用されている材料は「銅」。

実は名古屋城が建てられた頃、瓦葺きの屋根だった。

しかし、瓦葺き屋根の最大の弱点ともなるのが重量。

これは世界最古の木造建築とも云われる法隆寺・金堂や五重塔、奈良東大寺の大仏殿なども瓦葺きの屋根を使用して造営されたが、木造建築であったが故、時代を下るとともに屋根の重みを支え切れなくなり、ついに傾きはじめた。

このため法隆寺では屋根の下に、つっかえ棒をカマしたり、大仏殿などは構造材を内部に入れて補強している。

同様のことがこの名古屋城でも起こり、やはり、瓦屋根の重みに耐え切れず天守が傾き始めた。

江戸時代前期のこと。佐渡で金が採掘されるようになると資源の採掘が盛んに行われるようになり、そのうち銅の鉱脈も見つかった。

通常、銅などの金属は加工に煩雑さ伴うことから、加工品を生み出すのは不可能とされたが、この当時、日光東照宮の造営などで金属加工の技術が向上した背景もあり、銅の屋根瓦が造成されるようになった。

しかしながら、銅資源はまだまだ高価なもので民間に出回るまでには時を要したが、城郭などには積極的に採り入れられ始め、その流れでこの名古屋城の屋根も銅葺きへと改造されることになる。

従来の瓦屋根から銅へ葺き替えられたことにより、名古屋城は旧来よりの美しい姿を維持することが可能となった。

以上、長くなったが名古屋城の屋根が緑色をしている理由は、星霜経て銅が雨水を浴びるなどで酸化し、緑青という物質が銅からニジみ出てきたから。

銅は錆びが始まると緑青が生成され、これが表面に付着することで保護皮膜の代わりとなり、長久的に耐久度を維持することができる。

ちなみに銅に葺き替えられた当初の名古屋城の色って想像つきますかぃ?

なんとぉぅ!「黒色」だったといえば腰を抜かしますかぃ?

西の丸の見どころ

表ニの門【重要文化財】

創建年

1612年(慶長17年)

建築様式(造り)

高麗門

屋根の造り

本瓦葺

重要文化財指定年月日

1930年12月11日

「表二の門(おもてにのもん)」は西の丸から入った敵の進軍を防ぐために造営された門。

太平洋戦争の東海大空襲の戦火の難から逃れた門であり、つまりは名古屋城内においては江戸時代の名古屋城造営当初の姿を留める貴重な建造物である。

江戸初期に造営された城郭の門構えは貴重。それゆえ1930年には国の重要文化財指定を受けている。

表二の門の特徴

高麗門

表二の門は本丸への最後の砦となる門であるのと、殿ぉぉっ!が常にくぐる門であることから、格別に頑強な構造を用いて造営されている。

門の様式は「高麗門(こうらいもん)」と呼ばれる仕様になっているが、これは鏡柱2本と内部の控柱2本の合計4脚から成る門である。

鉄板が据えられた門

門正面部分に見える鏡柱や冠木(かぶらぎ/横の柱)に張りめぐらされた鉄板がその頑強さを伝えている。

⬆️門柱および貫材(冠木)に至るまで鉄板が貼られている。まるで中世西洋の鉄騎城を彷彿とさせる造り。

3つの屋根を持つ門

この門の左右の控え柱の上には、それぞれ小さい切妻屋根が乗っているのだが、門の正面となる鏡柱の上にも切妻屋根が乗っている。

つまりのところ、この門には合計で3つの屋根が据えられていることになる。

門両脇・土壁の小穴

この門の両脇にそびえる土壁には小穴が見えるが、これは「狭間(さま)」と呼ばれるものであって、わざと空けられたもの。

往時はこの穴から鉄砲の筒先を出して敵を狙撃していたとされる。うきゃ




御深井丸の見どころ

御深井丸展示館

上掲写真を見て分かる通り、木造平屋建ての瓦葺きの和様を醸した建造物。現在は展示館として用いられている。

御深井丸展示館の内部の様子

内部では古くから名古屋に伝承される郷土玩具や土人形などの展示、ほかに本丸御殿の復元事業などに関する資料が展示されている。

観覧所要時間

内部は予想外に広いが観覧所要時間(滞在時間)は約10分。

定期的に企画が立てられ、テーマにそった展示物が出陳される。

じっくりクリリン気円斬なほどジックリと名古屋文化に触れたいコノヤローどもは、上掲、西の丸城宝館と併せて訪れたいところ。オホっ

乃木倉庫

名古屋城1872年(明治5年)、大日本帝国陸軍の管理下に置かれ、基地として機能した時期がある。この建造物こそ、まさにその遺構となるもの。

この建造物の外観を見れば分かるが、四隅に煉瓦積みを用いるなど、近代和様を折衷したようなレトロ感を醸しまくり、プンプンっ、ぷんプンっ‥‥とした独特の臭いを放ちまくっている。

建物の名前の由来は陸軍少佐・乃木希典(のぎまれすけ)の乃木から由来がきているとされているだが、定かではないとのこと。

乃木倉庫の内部

乃木倉庫はかつて弾薬庫として用いられていたが、太平洋戦争の空襲の際は障壁画や天井画などが収められ、そのおかげで空襲の被害から逃れることができたとされる。

二の丸の見どころ

名古屋城「二之丸大手二之門・旧二之丸東二之門」【重要文化財】

創建年

1612年(慶長17年)※江戸時代

建築様式(造り)

高麗門

屋根の造り

本瓦葺

重要文化財指定年月日

1975年(昭和50年)6月23日

この門も表二の門と同様、太平洋戦争の戦火を逃れた門であり、江戸時代初期に造営された門構えであることが貴重とされ、やはり国の重要文化財指定を受けるに至っている。

太平洋戦争の東海大空襲では、本丸、本丸御殿は石垣を残すのみで灰燼に帰した。しかし、本丸や本丸御殿の周囲のわずかな建造物はかろうじて戦火の難を逃れることができた。

この門や、表二の門はそのうちの1つ。

搦め手馬出し

ただ単に城内を歩いているだけでは気づきにくいのだが、東二の門の前には「搦め手馬出し」という敵を効率よく撃退するための防御壁が備えられている。

名古屋城が築城された頃、徳川家康公により創設された徳川幕府と、豊臣家がまだ大坂(大阪)に並存していたことにより、表面的には天下が成りながらも恒久平和がゆらいだ不安定な時期でもあった。

豊臣家には太閤秀吉が残した財があり、はたまた、秀吉恩顧の武将が集結していたことから、東西の間には不穏な空気が生じ、東都・江戸を防衛するための前線要塞として名古屋城が築城されたと云われる。

それがゆえ、名古屋城は信長公が建造した安土城とは打って変わり、防衛機能を兼ね添えた優れた城郭として設計がなされた。

その防御機能の代表例として「搦め手馬出し」がある。

「搦め手馬出し」とは、門戸の前の「コの字型の壁」のことを云ぅ。

画像提供先:名古屋市科学館

まず、門の前に壁(石垣)を設けることで騎馬隊による正面突破や鉄砲隊を用いた切り崩しを防ぐことができる。

それに加え、壁をコの字型にすることで壁の内部にも兵員を配置することが可能となり、門に攻めかかった敵に対して、門の守備兵と挟撃することも可能となる。

万が一、搦め手が攻め取られても敵が侵入してきた際、敵を分断させることが可能となり、門を閉じることで狭間(さま)から鉄砲や弓矢などの矢玉を敵に食らわせて士気を削ぎ落とし、切り崩しを図ることも可能となる。

本丸搦め手馬出し・概要(大きさ・長さなど)

  • 高さ:約12.5m(空堀部)~ 14.2m(水 堀部)
  • 南北:約94.3m
  • 東西:約51.8m

面白いことになんと!この搦め手馬出しの造営費用は、豊臣恩顧と思われる武将たちの普請(ふしん)によって実現されてい‥‥‥申す。ギャホェっ

普請担当大名

  • 北面:西から浅野 幸長(紀伊)、黒田長政(筑前福岡)、田中忠政(筑 後柳川)
  • 東面:北から田中忠政、黒田長政、山内 忠義(土佐)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒正俊(讃岐高松)
  • 南面:生駒正俊、鍋島勝茂(肥前佐賀)

家康公がズル賢い「タヌキ」と呼ばれた理由が分かる一面なのだが、豊臣恩顧の武将たちに、あえて費用を捻出させることで豊臣家の力を削いだと云われる。

しかし通常、将来的に敵になるか分からない者共に城の内情を知られるのは危険極まりない。しかし公は敢えて城の普請を担当させた。

これは公が名古屋城の防御力に絶対の自信を持っていたこともあり、逆にそれを見せつけることで敵の戦意を削いだとも云われる。

事実、名古屋城築城が成った後、大坂の役(大阪の陣)が勃発したが、普請を担当した大名の中で豊臣方に寝返る者はいなかったとされる。

ちなみに、このような搦め手馬出しを家康公本人が本丸に据えるように指示したというのだから驚きを隠せいなぃ。

常に最悪の事態を想定した、家康公の思慮深き性格が垣間見える場所であるといえよぅ。




名勝「二の丸・庭園」【史跡名勝天然記念物】

造営年

  • 1615年から1624年(元和年間)
再建年

  • 1716年から1736年(享保年間)
面積

  • 約3万㎡
史跡名勝天然記念物指定年月日

  • 1953年3月31日

当園は、元和年間に二之丸御殿の北側に造営された際に作庭された庭園で藩主が居処した御殿の庭園としては日本一の規模を誇る。

全国でも6例しかないとされる「玉澗流(ぎょっかんりゅう)」という安土桃山時代に流行した意匠を用い、古田織部の弟子「上田宗箇(うえだ そうこ)」が作庭してい‥‥‥申す。ギョヘっ

玉澗流の「玉澗」とは、宋の著名な水墨画家「玉澗」のこと。その玉澗の山水画をモチーフとしたことから、玉澗流と付された。

なお、同氏は他に広島城(浅野家)の別邸「縮景園」を手がけている。

現在当園は2013年~2023年の予定で文政年間(1818-1830)に描かれた御城御庭絵図(おしろおにわえず/(名古屋市蓬左文庫 所蔵))を参照しながら、往時の庭園の復原工事が執り行われている。

およそ10年間に渡る大規改修工事だが、1976年(昭和51年)に地下から江戸時代後期の大規模な大名庭園の遺構が新たに見つかっている。

その遺構が御城御庭絵図に描かれた内容と合致していることから貴重な文化財として認知され、2018年(平成30年)に庭園ほぼ全域が名勝の範囲として追加指定されている。

また、御城御庭絵図によれば、当園は尾張藩十代藩主の徳川斉朝(なりとも)の御代、東庭園まで拡張されており、茶屋が新たに設置され、園池も造池されるなどしている。

枯山水回遊式庭園

後世にて幾度か再建が行われているが、最終的には「枯山水回遊式庭園」となっている。(現在)

枯山水回遊式庭園の「枯山水かれさんすい)とは、水を用いず、水を砂や玉砂利で表現して創造した庭園だということ。それゆえ「枯水」が付されてい‥‥申す。ギェヒャっ

石組みを用いて滝やその滝から流れ落ちる水、そして川水や池を表現した玉砂利や砂、池中には適当な石を配置して島に見立てる。

島には石橋を渡し、玉砂利や砂には波紋状の線を入れて水と島とを巧みに表現している。

⬆️見事な石組が見える

南池

文政年間に整備された二の丸御庭の姿を描いた御城御庭絵図(おしろおにわえず)によれば、池庭園の東南部の大池に船(舟)を浮かべ、北岸には大きな舟形の一枚岩が張り出し、中央に石を組んだ中島が描かれている。

1976年(昭和51年)に実施された発掘調査では、池の遺構の一部が確認されている。

の石組の石は多くが抜き取られてはいるものの、往時の有り様は色濃く残っており、大規模な深い池であったことが明らかにされている。

二の丸庭園「茶亭」

二の丸には茶亭が設けられており、中ではお茶菓子と抹茶をいただくことができます〜る。

メニュー一覧
  • 金箔抹茶(日替わりお菓子付き):650円
  • 抹茶(日替わりお菓子付き):540円
  • みつ豆:380円
  • グリーンティー(お菓子付き):400円
  • オレンジジュース(お菓子付き):400円
  • 抹茶のみ:270円
  • お菓子のみ:270円

お外にも席が設けられており、名古屋城内の息吹を感じながら茶菓子と抹茶を楽しむことができ申す。

【注目】金の茶釜で点てた茶が飲める!

この二の丸茶亭では、毎週金曜日になると「金の茶釜」でお茶が点てられている。

金製の茶釜で点てた茶の味はどう変わるのか?‥‥‥必見💖

埋門跡

「埋門(うずみもん)」とは、城郭の石垣または土塀の下をくぐる門ということで「埋門」と呼ばれる。

この埋門跡は二の丸庭園の西北端にあることからも想像がつくように、城が危急の場合、城主はこの門より脱出して逃げ落ちるということが決められていた。

この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降りて堀を渡り、対岸の御深井丸の庭から土居下を通って大曽根勝川、定光寺を経て、木曽路に落ち行くことが極秘の脱出経路とされていた。ウフ

正門

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創建年(移築)

  • 1910年(明治43年)
再建年

  • 1959年(昭和34年)

この門は旧・江戸城にあった「蓮池御門(はすいけごもん)」を移築してきたもの。

1910年(明治43年)に江戸城から移築されたものだが、惜しく儚くも東海大空襲によって天守もろとも焼失した。

現在の正門は1959年(昭和34年)に再建されたもの。

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