名古屋城本丸御殿の内部の様子や見どころ・見学所要時間をご紹介!

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名古屋城本丸御殿【旧・国宝】

まず、最初に本丸御殿は「ほんまるごてん」と読む。「ごでん」と読みそうになってしまうが正式ではない。これはパソコンのキーボードで入力して変換すればよく分かる。

  • 建設会社・設計:安藤ハザマ・松井建設・八神建築JV
  • 大工:魚津社寺工務店(魚津源二 棟梁)
  • 復元費用(総工費):150億円
  • 工期:2009年1月〜2018年6月8日
  • 総面積:3100平方メートル
  • 部屋数:30以上
  • 使用された木材:ヒノキ角物2085本、ケヤキ角物408本、松角物9796本、タタミ総1759畳

以下では名古屋城本丸御殿の内部の見どころをご紹介しています。

名古屋城本丸御殿とは?

遠方から名古屋観光に訪れた方などは「名古屋城本丸御殿」と聞いてその存在自体に首をかしげる方もいると思われますが、「本丸御殿」とは名古屋城の城主、すなわち尾張藩主の住居になる建物であり、藩主が政治を行う役所の役割を担う場所でもありました。

通常、殿っ!・・と言えば天守閣にいるイメージがありますが、この時代の天守には城主や客人が立ち入る建物としての機能は省略されており、実際のところ権威を示したり、物見櫓的な意味合いを持った飾り的要素が濃いものでした。

この本丸御殿は創建以降、歴代の徳川藩主が居処し、明治維新後には政府により取り壊しの案が出されましたが、政府の軍事拠点が城内に置かれることにより、「取り壊し」という最悪の事態は免れ、1930年(昭和5年)に城郭としては国第一号となる国宝指定を受けるに至っています。

しかし、1945年(昭和20年)に空襲により灰燼に帰し、2009年(平成21年)より、ようやく創建当初の設計図などの資料をもとに復元工事が再開され、2018年(平成30年)に晴々、一般公開され現今に至っています。

本丸御殿の場所(地図)

本丸御殿は名古屋城の広大な敷地内のほぼ中心に位置し、天守閣のある城の足元に築かれた平屋建ての建造物です。




名古屋城本丸御殿の内部図

上図を見ただけでは分かりにくいのですが、実は本丸御殿には2つの出入口があって、それぞれの出入口から観覧できる見どころが変わります。

名古屋城本丸御殿の2つの出入口

  • 中之口部屋横出入口(上掲の写真右側)
  • 湯殿書院前出入口(上掲の写真左側)
中之口部屋横出入口から観覧できる見どころ

玄関、表書院、対面所、上洛殿

湯殿書院前出入口から観覧できる見どころ

湯殿書院、黒木書院

名古屋城本丸御殿の公開時間(営業時間)・定休日・年末年始

  • 公開時間(営業時間):午前9時~午後4時(名古屋城全体の営業時間は午前9時~午後4時30分
  • 定休日:年末年始(12月29日~31日、1月1日/4日間)

名古屋城本丸御殿の見学所要時間

名古屋城の公式では1時間〜1時間30分と記載されていますが、人によります。(御朱印スタッフが訪問したときは内部が混雑していましたので1時間40分くらいかかりました)

名古屋城本丸御殿の混雑具合

名古屋城本丸御殿は以下の2つのエリアに分かれていますが、各々の混雑具合は次のとおりです。

中之口部屋横出入口エリアの混雑具合

中之口部屋横出入口は名古屋城本丸御殿のメインエリアになります。

平日

平日は午前と午後を通して割合すんなりと入れます。待ち時間は10分〜20分くらいです。ただし、団体客が増えると状況は一転し、急激に混雑します。入口手前で館内での禁止事項などの説明の動画を約5分間視聴することになります。

土日祝日:

普段の土日祝日は平日と変わらず割合すんなりと入れます。待ち時間は10分〜20分くらいです。ただし、団体客が増えると状況は一転し、急激に混雑します。入口手前で館内での禁止事項などの説明の動画を約5分間視聴することになります。

土日祝日の混雑具合は季節によって大きく異なります。例えば5月は「GW」という連休があります。また、名古屋城は桜や紅葉の名所でもあることからこの時期は午前と午後を通して混雑します。

⬆️中之口部屋横出入口の様子(写真は土曜日の午前中)

中之口部屋横出入口エリアの繁忙期(GWなど)の混雑具合

平日
  • 午前中:約1時間
  • 午後:約1時間(入場終了時間が近づくにつれ減っていきます)
土日祝日
  • 午前中:約1時間〜2時間
  • 午後:約1時間〜2時間(入場終了時間が近づくにつれ減っていきます)

湯殿書院前出入口エリアの混雑具合

混雑するのが湯殿書院前出入口から観覧できる「湯殿書院」、「黒木書院」です。

このエリアは面積が狭く、一度に大勢が入場できないため、あえて先着順で10人のグループで入場する形式が採用されています。したがって、混雑するというよりは「待ち時間が必然的に発生するエリア」とう見方もできます。

まず、10人が入ってその10人が出てきたのを見計らって次のグループが案内されますので、入場できる時間と退出する時間が決められています。

入場できる時間(1時間に6回)
  • 毎時05分、10分、15分、35分、40分、45分(※変動あり)

※最終入場時間16時〜17時まで(季節によって変動)

⬆️湯殿書院の出入口

10人以上が並んだ場合、11人目からは次回になってしまいますので、この場合は待ち時間が発生することになります。例えば10時05分の時点で30人が並んでいた場合、あなたが31人目になりますので計算上では35分の回に入場できることになります。

すなわち30分の待ち時間が発生するということです。




内部の様子や見どころ

中之口部屋横出入口

車寄せ

車寄せは将軍さまの他、外様大名など将軍に謁見できる地位にいる身分の者が上がることのできる本丸御殿への正式な出入口になります。つまり正面玄関ということになります。

出入口となる部分は突き出していますが、これが「車寄せ(輿寄せ)」と呼ばれる部分です。すなわち雨や雪の日でも輿がそのまま玄関の内部に入って内部(玄関)にて下車できる仕組みになっています。

突き出た部分の屋根は弓なりの唐破風が取り付けられ、格調高い杮葺(こけらぶき)で葺かれています。正面の破風に見える徳川家の家紋があしらわれた飾り金具がとくに目を引きます。

なお、この車寄せに使用される柱は本丸御殿の中で数多く使用さえているどの柱よりも、太い柱が使用されています。

この門は「徳川家の顔」と言っても過言ではないほどの門なので、それだけにその重要度が柱の太さを見てもヒシヒシと伝わってきます。

玄関

⬆️竹林豹虎図

現在は「玄関」ですが、かつては「遠侍」と呼ばれた場所です。

玄関の内部は18畳の一之間に、28畳の二之間の二部屋から構成されています。

一之間には床や違い棚が据えられ、襖壁は金地の障壁画「竹林豹虎図」が飾られています。このため別名で「虎之間」とも呼ばれています。

玄関の見どころ
  • 竹林豹虎図
竹林豹虎図

1614年(慶長19年)に描かれたとされる作品です。作者は不明。上掲写真のものは復元されたものです。(オリジナルは重文指定で別の場所に保管されている)

この絵に描かれているのは虎と豹です。虎と豹が竹林の中で水を飲んだり、子供をあやしたり、じゃれ合ったりしている様子が描かれています。

江戸時代には動物園のようなものがありませんので、豹は雌の虎だと本当に思われていたようです。

また、この当時は本物の虎や豹を見ることがなかったことから、古文書や巻物に描かれた豹や虎か、実物の毛皮などを参考にして描かれています。

なお、絵はぜんぶで4枚。4枚つなげて1つの作品です。1枚の大きさは縦約2メートル、横約1.5メートル。

大廊下

大廊下は玄関から入室してきた客人が最初に通る大きな廊下です。玄関と奥を結ぶ重要な通路で幅約3間(約6メートル)にも及びます。

梅之間

梅の間は将軍さまをモてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使用された部屋です。上洛殿と共に1634年(寛永11年)に増築されています。

表書院

ここは名古屋城本丸御殿が造営された当初、もっと格調高い部屋だった場所です。理由は将軍との対面儀礼のために造られた殿舎になるからです。江戸時代には「広間」と呼ばれていた場所です。

上段之間(15畳)、一之間と二之間(各24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋で構成されています。

上段之間は部屋の最奥に位置し、殿ぉっ!が着座する場所(間)であり、書院造りで造られています。名古屋城初代城主「徳川義直」が実際に着座していた部屋です。

特徴的で目を引くのが、正面に見える床と違い棚と、その隣りに見える付書院(つけしょいん)と帳台構(ちょうだいがまえ)です。

このような書院造は平安時代の貴族の邸宅に用いられた様式ですが、この名古屋城本丸御殿で見ることのできる様式は武家風や数寄屋風の意匠を用いて、さらにアレンジが加えられた様子がうかがえます。

表書院の見どころ
  • 桜花雉子図
  • 松竹禽鳥図
  • 麝香猫図

対面所

「対面」の名前の由来とは、藩主が自らの身内や家臣たちとの私的な用事での対面もしくは宴席に使用された場所だからです。

上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋で構成されています。

天井は他の部屋とはまた趣が少し異なり黒漆で塗装された、まばゆいばかりに輝く漆黒の折上げ式の小組み格天井が採用されています。

上段之間および次之間の四方には襖絵が張られていますが、これは風俗図と呼ばれるものです。京都の街並みや和歌山の名所における四季の様子が色あざやかに描かれています。

作者は不明とされていますが、現在までの推察によれば狩野派の「狩野 甚之丞(かのう じんのじょう)」とされています。

対面所の見どころ
  • 風俗図
風俗図

この対面所には藩主が家族などの親しい間柄の者たちとの宴席の場であることから、穏やかでホッと和むような庶民の暮らしぶりが描かれた様子が描かれています。

次之間に見える襖絵の風景は義直公の正室である「春姫」の故郷・和歌山の城下町や海が描かれていると言われているようです。1615年(慶長20年)に義直公と春姫との婚儀がこの対面所にて執り行われています。

上段之間で描かれているのは京都・吉田神社の「湯立て神事」の様子や、田植えをしている様子、上賀茂神社で執り行われた競馬の様子、庶民が囲碁を楽しむ様子、屋根を修理する様子が描かれています。

いずれの絵の中にも描かれた人々は実に活き々としており、見ているコチラがホッコリとしてしまいそうになります。

なお、この絵は徳川家と浅野家の縁を祈念した絵だと伝えられています。




上御膳所

御膳所とは、早い話が「台所」の敬称になります。料理は台所で作られ、その後、この上御膳所に運びこまれて料理の配膳と温め直しが行われます。中央に見えるのは料理を温めなおすための囲炉裏です。

天井を見上げると通気口が見えますが、これは外から見ると煙突のようになっており、ここから煙を排出する仕組みが採られています。

上御膳所の柱の落書き事件

2019年9月、上御膳所の柱に「りょうじ」と尖った物で刻まれたようなイタズラ書きが発見されたことが随分と話題になりました。

この柱に刻まれた「りょうじ」の文字は「縦8㎝、横2㎝」で、他にもなんと!「”サイ”もしくは”カイ”」と刻まれた落書きも見つかり、こちらは「縦8㎝、横2㎝」になります。

⬆️「りょうじ」落書き

名古屋城へ入ると最初に説明がありますが、柱などに傷が付かないことを防止するためにリュックサックも背中ではなく、胸前にかけるように言われます。

これは背中が死角になることから、無意識に傷を付けたりするなど予防策が採られているためです。

本丸御殿は創建当初の城容を忠実に復原して再建されていますので、もはや国宝と言っても過言ではありません。くれぐれも細心の注意をもってご観覧下さい。

下御膳所

下御膳所は、殿ぉぉぉぅっ!!・・の料理を調理する「上台所(かみだいどころ)」で作られた宴席用の料理の配膳をするための部屋です。中央に見えるのは上御膳所と同じく囲炉裏になります。

上御膳所と同様に天井を見上げると通気口が見えますが、同じく、ここから煙を排出する仕組みが採られています。

上台所

「上台所」とは、将軍さま専用の食事を調理する建物です。火を扱うため屋根は杮葺(こけらぶき)ではなく、本瓦葺きで葺かれており、庇のみが杮葺で葺かれています。天井には煙出しが据えられています。

上洛殿

⬆️上洛殿・上段の間

  • 造営年:1634年(寛永11年/江戸時代前期)
  • 建築様式(造り):入母屋造、こけら葺き
  • 棟の高さ:約7メートル
  • 天井高:3.1メートル
  • 大きさ(面積):15畳(一之間:18畳/ニ之間:22畳/三之間21畳/松之間20畳/納戸之間10畳)

⬆️上洛殿・三之間

「上洛」の名前の由来とは、家光公の上洛に合わせて新築した建物になることから「上洛殿」と名付けられています。上洛殿は、2018年(平成30年)6月8日に復元工事を終えて、無事に一般公開されています。

室内の襖という襖には狩野派の絵師たちの手により襖絵が描かれており、それぞれに襖絵には、金色に光り輝く飾り金具で取り付けられ、格調高い部屋であることが分かります。

この部屋を見るだけで、この部屋が将軍のお側ちかくに使えた限られた人物の入室しか許されない部屋であることが分かります。

天井は格調高さを誇示するかのような折上げ格天井が張られており、それぞれの格縁の周囲にもこれ見よがしに飾り金具が用いられ、絢爛豪華さがまばゆいばかりに目をひきます。

上洛殿の見どころ
  • 雪中梅竹鳥図
雪中梅竹鳥図

中でもとくに狩野派を代表する33歳の狩野探幽の手によって描かれた「帝鑑図」と「雪中梅竹鳥図」は一見の価値があります。

三之間には四面の襖絵が張られていますが、それぞれの襖絵で春夏秋冬を表現した四季花鳥図になっています。

この絵は早春を表現したおり、西には渓流と蓮で夏、南は枯れた柳、秋は芙蓉(ふよう)、東は雪が積もる竹を用いて冬を表現しています。

湯殿書院前出入口エリア

黒木書院

  • 造営年:1634年(寛永11年/江戸時代前期)
  • 建築様式(造り):入母屋造、こけら葺き
  • 棟の高さ:約7メートル
  • 天井高:3.1メートル
  • 大きさ(面積):16畳(一之間:8畳/ニ之間:8畳)

黒木書院の「黒木」の由来は良質な黒松が使用されて建てられていることに因みます。また、清洲城に建てられていた家康公の宿舎を移築してきて建てられたものだとも考えられています。

この理由は黒木書院に置かれた障壁画が清洲城の頃に描かれた可能性が高いとされていますが、この理由は他の部屋と比較して意匠が異なるからです。

例えば名古屋城の他の部屋は狩野派の意匠が見られますが、ことこの黒木書院に関しては描き出された季節も異なり、時計回りに移り変わるように描かれています。

黒木書院の見どころ
  • 山水図
  • 四季耕作図
  • 梅花雉子小禽図(ばいかきじしょうきんず)

湯殿書院

  • 造営年:1634年(寛永11年/江戸時代前期)
  • 上段之間:6畳
  • 一之間:10畳
  • 二之間:10畳

湯殿書院は将軍専用の風呂場がある場所です。すなわち「湯殿」とは「風呂」のことです。上洛殿と時を同じくして寛永期に増築されたものです。

湯殿には東大寺大湯屋の内部で見られる湯殿のように「唐破風(からはふ)」が据えられ、外で釜で湯を沸かし、その湯気を内部に引き込むうような「サウナ式の蒸気風呂」になっています。

現代の風呂と言えば湯船に湯を貯めてドブん!と浸かって「ふぅぅぁぁぁ〜・・極楽♪極楽〜♪」などとドスを効かせた愚かな奇声を発しながら浸かるものですが、江戸時代の風呂と言えば「蒸し風呂」のことでしたので、すなわち沐浴(もくよく)するようなイメージのお風呂です。

この湯殿書院は別名で「上がり御殿」と呼ばれ、将軍専用の浴室(湯殿)と脱衣場に相当する上がり場(上段の間、一の間、二の間)

⬆️湯殿書院の唐破風屋根と鬼板

蒸し風呂の仕組み

湯殿は「湯殿」と「風呂屋形」と「釜屋」という3つに分けられています。まず、釜屋には「かまど」が設置されており、「かまど」の上には鉄容器が置かれ、この鉄容器で熱した蒸気が風呂屋形(いわゆる風呂の部分)へ送り込まれる仕組みになっています。

⬆️わかりやすい図

湯殿書院の見どころ
  • 岩波禽鳥図
  • 扇面流図

鷺之廊下

「鷺の廊下」とは、対面所と上洛殿とを結ぶための廊下のことです。1634年(寛永11年)に上洛殿と共に増築されています。この鷺の廊下の天井のあたりを見れば分かりますが、長押の上まで障壁画が描かれています。

これは寛永期に散見される建築様式の特徴でもあります。将軍や藩主はこの廊下を通って上洛殿へと向かったのです。

不明門

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実は本丸御殿には「不明門」と呼称される謎の門があります。

不明門は「ふめいもん」や「あかずのもん」と読み、かつては不明門と書いて”あかずのもん”と呼んでいたようです。

不明門の名前の由来や意味合いは謎となっていますが、実はこういった不明門と言うのは日本の各地に存在しています。

代表例を挙げると宮島・厳島神社の本殿の真裏にある門も「不明門(あかずのもん)」と呼称されています。

呼称の理由は使用することがなく、ずっと閉じられたままになっているからです。

こう言った門の名称は後世において人々が「開くことがない目的が不明の門」などと噂したのが、いつしか「不明門」と呼ばれるようになり、これが不明門の由来や意味合いになると考えられます。

ただし本来は何か目的があって造られた門だと考えられます。




名古屋城本丸御殿に使用されている木材や伝統技法とは?

本丸御殿には、ぬぅあんとぉぅっ!伊勢神宮の殿舎にも使用されている耐久性のある高級材「木曽産のヒノキ」が使用されています。

その木曽ヒノキを用材として使用できるように伝統工法である「継手」「仕口」といった木組みができるように加工しています。

画像引用先:横浜市技能文化会館

名古屋城本丸御殿の飾り金具

名古屋城本丸御殿には細部に見られるまでに贅の限りを尽くした飾り金具の意匠が見えます。

※以下一部、名古屋城本丸御殿パンフレット引用

唄金具(ばいかなぐ)

引手金具

引手金具(対面所)

引手金具(玄関)

 

引手金具(表書院)

 

引手金具(上洛殿)

 

破風

破風(懸魚)に見える金具

釘隠し

釘隠し(玄関)

釘隠し(鷺之廊下)

釘隠し(上洛殿)

 

筆返し

辻金具

辻金具(上洛殿)

帳台構え

帳台構えの金具

その他の金具

上洛殿の飾り金具と花柄模様

三つ葉葵で有名な「徳川紋(徳川家の家紋)」が刻まれた飾り金具です。花模様の花ビラが緻密に表現されている意匠が見える。




名古屋城本丸御殿の天井

竿縁天井

竿縁天井とは、「竿」という細い横木を30㎝〜60㎝間隔で並べ立て、その上に天井板を載せる方法です。純和風の建築様式です。日本に見られる家宅で散見されます。

本丸御殿では玄関や大廊下に用いられています。

格天井

格子とはマス目のことであり、45㎝〜90㎝ほどのマス目を並べるように組まれた天井のことです。

このようなマス目を作ることを格縁(ごうぶち)と呼称し、中に張られた板を鏡板と呼称します。

本丸御殿内では上記、竿縁天井と並んでもっとも格の低い天井です。

折上げ小組格天井

  • 写真の天井の場所:表書院・上段之間

「折上げ」とは、天井が奥(上)に1段上がって見えるような様式で造られた天井のことです。天井の周囲が弓なりに湾曲しているのが特徴です。

「小組み」とは、格縁の中にさらに細かい格子が組み込まれた天井のことです。(上掲の写真参照)格式で言えば上記、竿縁天井や格天井よりも上です。

黒漆金具付格天井

  • 写真の天井の場所:上洛殿・三之間

格縁に黒漆を塗り、さらにその上に飾り金具が取り付けれた豪勢な天井です。さらにその内側となる格子の1つ1つにカラフルふるふるな天井板絵がはめられています。

黒漆塗折上げ小組格天井

  • 写真の天井の場所:対面所・次之間

この天井の大きな特徴は天井の縁が折上げ式天井よりも高いということです。

その上さらに天井全体に黒漆が塗られています。

黒漆塗二重折上げ小組み格天井

  • 写真の天井の場所:対面所・上段之間

この天井の大きな特徴は、折上げ式小組格天井の中央部分の天井をさらにもう1段折上げた天井です。その上さらに黒漆塗りがほどこされていますので「二重折上げ式」が付きます。

黒漆塗り一色で仕上げられている天井ですが、なぜか不思議と気品に満ちた高級感や重厚感が感じられます。

黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井

  • 写真の天井の場所:対面所・上段之間

本丸御殿内でもっとも格式の高い天井です。理由は上掲の天井の写真を見れば分かりますが、最大の格式を持つ二重折上げ式天井に加え、格縁には金飾りが用いられ、格子部分にはカラフルふるふるな極彩色の蒔絵が描かれています。

写真は上段之間の天井ですが、それぞれの格子には竹や松などの樹木などが描かれており、格子1つ1つの絵が異なるのが特徴的です。

欄間

鞘欄間(玄関・表書院)

本丸御殿の欄間にしては質素ですが、その質素ぶりから察れるようにこの欄間は廊下に用いられている欄間です。鴨居の上の壁をくり抜いて通風や採光を目的として設けられた欄間です。

筬(おさ)欄間(玄関・表書院)

筬(おさ)とは織機の縦糸をそろえて横糸を押し詰めて織り目を整えるための部材の1つです。細かく切った竹を櫛(くし)のように細かく並べ立てて周りに枠となる板をはめこんだものです。

横にも竹が3本入っていることから、素朴に見えて案外手の込んだ作りをしており、さすが本丸御殿をかざる欄間といえます。なお、この欄間は表書院のものです。

花欄間(表書院・上段之間)

表書院や対面所の付書院にはめ込まれている欄間です。主に部屋と廊下との区切りに設けられる例が散見されます。花模様が特徴的です目を惹きます。

花挟間格子欄間(表書院・上段之間)

正面に見える花模様は透し彫りになっています。描かれていません。奇抜かつ繊細な模様の透し彫りであることから、さぞかし名のある職人の仕事でしょう。

この欄間は上洛殿の廊下に据えられているものですが、

奇抜な模様が取り入れられた理由は、部屋の連続性を視覚的に表現するために取り入れられているものです。

⬆️上洛殿の廊下

上洛殿の彫刻欄間(透し彫り)

ヒノキ材を贅沢に用いて富山県井波の職人による透し彫りが施された欄間です。その上、極彩色で彩られており、桜や牡丹などの花鳥風月も見られます。上洛殿の天井付近を飾る欄間としては最適と言えるでしょう。

名古屋城本丸御殿の障壁画の種類

花鳥、山水(水墨画)、走獣、人物

名古屋城本丸御殿の障壁画の植物(花)

松(表書院 二之間)

くさいちご(玄関 一之間)

ハナカイドウ(表書院 三之間)

芙蓉(ふよう)(上洛殿 二之間)

名古屋城本丸御殿の障壁画の人物画

囲碁(対面所、上段之間)

相撲(対面所 上段之間)




名古屋城本丸御殿の障壁画に描かれる動物・鳥

虎と豹(玄関 二之間)

雉子(表書院 一之間)

山鵲(対面所 納戸二之間)

雉子(上洛殿 三之間)

麝香猫(じゃこうねこ)(表書院 三之間)

鶺鴒(せきれい)(表書院 上段之間) 

鷺(鷺之廊下)

猿(上洛殿 西入側)

名古屋城本丸御殿の簡単な歴史(年表)

できごと
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで徳川家康公が勝利す。のちに開かれた評定にて尾張国を四男の松平忠吉を清洲城主に任命す。
1607年(慶長12年) 松平忠吉が病没したため、代打として家康の9男徳川義利(義直)が清洲城主に着任す。
1610年(慶長15年) 閏2月〜3月、名古屋城築城に着手。8月、天守台石垣が完成す。年内には普請工事が完成す。
1612年(慶長17年) 天守閣や諸門、櫓などの作事が完成す。この頃から本丸御殿の造営工事が開始される。
1615年(慶長20年/元和元年) 2月、本丸御殿が完成。
1616年(元和2年) 名古屋城入りした義直が居住す。
1620年(元和6年) 義直とその家族が本丸御殿から二之丸御殿に移住す。
1626年(寛永3年) 二代将軍・徳川秀忠が上洛に際し、宿泊。
1633年(寛永10年) 翌年に三代将軍家光公の上洛に備え、上洛殿などを造営(作事に着手)
1634年(寛永11年) 三代将軍徳川家光が上洛に際し宿泊す。
1728年(享保13年) こけら葺きの屋根を桟瓦に葺き替え、妻側を塗籠(ぬりごめ/土壁のこと)に改造す。
1872年(明治5年) 陸軍省直下の管理下に置かれる。名古屋鎖台本が置かれる。
1893年(明治26年) 宮内省に移管される。名古屋離宮として皇室の所有になる。
1930年(昭和5年) 離宮が廃止になり、名古屋市に下賜される(移管される)このとき天守閣ふくめ本丸御殿も国の国宝指定をうける。
1942年(昭和17年) 本丸御殿の障壁画の一部が国宝指定を受ける。
1945年(昭和20年) 戦災により天守閣もろとも焼失。
1959年(昭和34年) 天守閣が再建される。
2009年(平成21年) 本丸御殿、復元工事に着手。
2013年(平成25年) 5月、第一期公開となる玄関・表書院が一般公開される。
2016年(平成28年) 第二期公開となる対面所・下御膳所が一般公開される。

名古屋城本丸御殿の障壁画

名古屋城は1945年(昭和20年)の空襲により、多くの貴重な建造物や絵画などが焼亡しています。

しかし合計1049面もの障壁画は幸いなことに戦時中に取り外され、別の倉庫に保管されていたため、焼失を免れています。

現在ではこのうち1047面が重要文化財に指定されています。

このように名古屋城が戦前のイキイキとした姿で忠実に復元されたのも、昭和初期の調査・計測によって残された309枚の実測図、戦前に撮影された約700枚の写真、約2000個の礎石などが現存していたおかげです。

城郭にてこれほど多くの史料が残されているケースは全国的にほとんど例がなく、これらの史料をもとに400年前の荘厳華麗な佇まいが蘇っています。

名古屋城本丸御殿内での注意事項と禁止事項

冒頭でもお話ししたように名古屋城本丸御殿内では以下のことが禁止されています。

  • 障壁画や飾り金具に触れない
  • フラッシュ撮影禁止
  • 飲食禁止
  • 通話禁止
  • ボールペン類の使用禁止
  • 飲食禁止
  • 禁煙
その他の注意事項
  • 本丸御殿は御殿入口で靴を脱いで昇殿します。
  • 本丸御殿内部には冷暖房やトイレ、授乳施設はありません。
  • 天候などの具合により公開中止の可能性あり。

これらを禁止する理由は貴重な復元建造物であることから美しい状態で未来へと継承していくという大義があるからです。

本丸御殿外部の見どころ

御殿椿

本丸御殿の黒木書院を向かい見て左脇の茂みの中には、「御殿椿」と呼ばれる椿が植樹されている。

この椿は江戸時代初期、本丸御殿造営された当初から当地に自生する椿とされ、長きにわたって本丸御殿に四季の彩りを添えてきた。

しかしながら昭和20年の太平洋戦争における東海大空襲にて本丸御殿もろとも火の粉を浴びるなどして罹災し、以後は樹勢が減衰し、現在は根っこを残すのみ。

写真のようにこの椿は現在は根しか残っていないが、城内で見られる場所がある。詳細は下記ページにて。

西南隅櫓

「西南隅櫓」とは、名古屋城防衛のために本丸の西南の角(隅)に設けられた櫓であることから、俗に「西南隅櫓」と呼ばてい‥‥‥申す。ガチョーンっ! 序盤で1発、伝説の谷啓をおみまぃ

江戸後期に編纂された名古屋城の記録集成である「金城温古録(きんじょうおんころく)」によれば、内部には歴代城主の甲冑が収められていたとされ、後に小天守へ移されたことが記されている。

西南隅櫓の詳細については下記ページにて。

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