蓬左文庫☘️の歴史(年表)を….キょぇぁ!、知る❓

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蓬左文庫とは?

蓬左文庫とは「ほうさぶんこ」と読み、早い話が尾張藩(尾張徳川家)の書物を収納しておくための書物庫のこと。

徳川美術館は令和5年12月16日~令和6年1月3日まで館内メンテナンスのため休館予定
詳細は公式サイトを要チェック💘

蓬左文庫の歴史

創建年と創建場所

当施設の草創は、家康公の遺品として譲与された駿河御譲本(するがおゆずりぼん)約三千冊を収蔵しておくための書物庫として、初代尾張藩or尾張徳川家初代当主の徳川義直(よしなお)が、名古屋城内二之丸庭園内に建造した「御文庫(ごぶんこ)」となる。

⬆️唇が乾いたので”ビル皮(唇皮)”をめくった後の唇表面のヒリヒリ感 & めくったプチ後悔心ほど噂の‥‥「旧・名古屋城二之丸の御文庫」※画像は徳川美術館ガイドブックより引用




学問を好んだ徳川義直

徳川義直は徳川家康の九男坊として、大阪城西ノ丸(京都伏見城という説もあるらしい)で、この世に生を得る。

⬆️ベッドの上でパンイチで寝そべりながらポテチ、カールチーズ味、じゃがりこサラダを乱れ食いし、仕上げにマウントレーニア(森永コーヒー牛乳)をグビグビと流し込むなど、ダラダラとYouTube視聴にふけるダラけ具合ほど噂の‥‥「徳川義直」

幼少の頃から家康公を慕って文武両道に努めたが、中でもとりわけ学問を好み、家康公ゆずりの儒教の研究に熱中し、発展にも寄与した。

また、駿河御譲本を基礎として和漢の書物蒐集を精力的に行い、後年、自らも「神祇宝典(じんぎほうてん)」や「類聚日本期(るいじゅにほんき)」「初学文宗(しょがくぶんそう)」などを著す。

義直公の逝去後、書庫に1万9000点もの蔵書が確認されたことからも、その事実がうかがい知れる。

公は家康公に随行し、1614年(慶長十九年)に大阪冬の陣にて初陣をかざり、天王寺付近に布陣。

翌年の大阪夏の陣では後詰として天王寺・岡山の戦いに参陣し、戦後は木曽福島や美濃国などを含め、およそ61万9500石を領する大大名となり、尾張徳川家ならびに尾張藩の礎を築いた。

駿河御譲本

秀忠へ将軍職を禅譲した家康公は、隠居先の駿府城にて和漢の貴重な書物蒐集に熱中し、1607年(慶長十二年)、城内に駿河文庫を創設するに到る。

家康公の死後、駿河文庫の蔵書は将軍家や御三家など、家康公の子息たちに分与され、後年これらの書物は「駿河御譲本」と呼ばれた。

昭和時代

現在の蓬左文庫は、1935年(昭和十年)に徳川美術館とともに開館したが、蓬左文庫は財団法人 尾張徳川黎明会(現・公益財団法人 徳川黎明会)所属の文庫として、東京目白の尾張徳川家・江戸邸内に営まれ、東京にて開館を迎えた。

しかし、徳川美術館は1945年(昭和20年)の太平洋戦争における名古屋大空襲によって僅か10年足らずで閉館することを余儀なくされたが、見方を変えれば東京の蓬左文庫に尾張藩伝来の貴重な書物類が収蔵されていたことにより、焼亡の難を逃れたことは不幸中の幸いであったともいえ〜る。

それから5年後の1950年(昭和二十五年)になると、蓬左文庫が名古屋市へ譲渡され、尾張徳川家江戸邸内から徳川美術館隣地の書庫へ、すべての書物が移された。そして、産声新たに蓬左文庫として名古屋の地にて開館に到った。

なお、「徳川美術館隣地の書庫」とは敷地の北西側にあった一号土蔵と二号土蔵を合体させ、1935年(昭和十年)に敷地南西部へ西面して移建したもの。

蓬左文庫と徳川美術館の運営者は異なる

戦前は徳川家が「徳川美術館」と「蓬左文庫」の双方を管理運営し、徳川黎明会所属の文庫として東京・目白の尾張徳川家邸内で研究者などにい後悔しないほどの勢いにて公開されるのみだった。

ところが、蓬左文庫に収蔵される書物は文化的価値が極めて高く、後世への完存という面では今以上の管理が必要になることが懸念された。

そこで1950年(昭和二十五年)、徳川黎明会は蓬左文庫を名古屋市へ譲渡し、現在は蓬左文庫のみ名古屋市が運営管理する。

なお、現在の蔵書数は約12万点にのぼる。(名古屋市公式に記載)

平成時代

2004年(平成十六年)の秋には、徳川園ならびに徳川美術館周辺の整備が行われ、蓬左文庫と徳川美術館の間に連絡通路が”親切”なほどに”新設”されると館内での往来が可能となり、現在は尾張徳川家伝蔵の宝物類を所蔵する徳川美術館と、11万点もの蔵書類を収蔵する蓬左文庫との一体化させた展示が行えるようになってい‥‥申す。ガハっ

2008年(平成十六年)には、90度回転する形で曳き家(解体せずにそのまま移動させる事)が行われたが、現在は蓬左文庫のエントランスホールとして利用される。

尾張徳川家 大曽根邸玄関の古写真

上掲写真中央に見える入母屋造、唐破風屋根のところが玄関、左端にみえる寄棟造の建物が二号土蔵、右端の建物が一号土蔵が移建される前の蓬左文庫の姿(旧・書庫)。現在は蓬左文庫エントランスホールとして現存。

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