【名古屋城の西南隅櫓】一般公開日はいつ?滞在時間(所要時間)や入場料金・内部の様子を‥‥‥知ろぅというのかぃ?

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まず‥‥「隅櫓」とは?

「隅櫓(すみやぐら)」とは、城郭の隅に建てた櫓のこと。櫓の起源は古く縄文時代の村落にも木組みの櫓が実在したことから、すでに上古時代から物見櫓として用いられていたことが分かる。

画像はhttps://ja.wikipedia.orgより

物見台の機能を主としながらも、中世には「矢倉」「矢蔵」とも記され、矢を保管しておく場所、つまり、矢を射るための基地として機能していた。

名古屋城には戦災を免れた江戸時代より伝わる西北隅櫓、東南隅櫓、西南隅櫓と呼ばれる3つの隅櫓がある。

これら3つ櫓は1612年〜19年頃に建造されたもので、物見台(見張り台)や「石落し」などの防衛機能が配備される一方で、食料や武器の備蓄庫としても機能していた。これはもはや単なる櫓ではなく城郭の重要な防衛拠点ともいえる。

また、長野県松本市の松本城(国宝)に見られるような「月見櫓(つきみやぐら)」なる、月見をすることを想定して改造された何とも雅で粋な櫓も存在する。

名古屋城西南隅櫓【重要文化財】

  • 建造年:1612年(慶長17年)
  • 大きさ:東西約11.8m、南北約13.5m、高さ約14.1m
  • 別名:「未申櫓」
  • 重要文化財指定年月日:1930年(昭和5年)12月11日

西南隅櫓」とは?

「西南隅櫓」とは、名古屋城防衛のために本丸の西南の角(隅)に設けられた櫓であることから、俗に「西南隅櫓」と呼ばてい‥‥‥申す。ガチョーンっ! 序盤で1発、伝説の谷啓をおみまぃ

江戸後期に編纂された名古屋城の記録集成である「金城温古録(きんじょうおんころく)」によれば、内部には歴代城主の甲冑が収められていたとされ、後に小天守へ移されたことが記されている。

外部の案内板の内容

重要文化財 西南隅櫓(せいなんすみやぐら)

1612年(慶長17年)頃に建造された外観二重、内部三階建ての珍しい形態をした櫓である。
二十四方位の未申の方角にあることから、別名で「未申櫓(ひつじさるやぐら)」とも呼ばれた。

二階の西、南面に張り出しがあり、この下に「石落し」がある。
「石落し」とは床に開閉式の穴を開け、石垣に接近してきた敵兵に石を落としたり、はたまたに鉄砲の筒先を出して銃撃できるようにした仕掛けのこと。

櫓は明治後期から大正期頃に自然災害で倒壊したが、1923年(大正12年)、宮内省により古材を用いて再建された。
鬼瓦に菊紋が見られるのは、そのためである。

内部の案内板

隅櫓と多門櫓

西南隅櫓には、北側と東側に平屋建ての長屋のように築かれた「多門櫓(たもんやぐら)」が接続していた。

これにより面で主要部を守備することができ、防御力は格段に向上した。

名古屋城本丸は、四方を多門櫓で囲み、要所に隅櫓を建て、当時の兵器や戦術では突破不能な防御力を備えてい‥‥申した。ダヒャっ

多門櫓は幅3間(けん/約5.9m)。外側1間が武者走(むしゃばしり)という通路、内側2間が武具などの倉庫として使用されていた。

明治維新後も本丸の多門櫓は残っていたが明治24年(1891年)の濃尾地震で大破し、撤去され‥‥‥申した。 また違うパターン ..なんの話や




西南隅櫓の特徴

3階建ての櫓

外観は二重櫓に見えるが実際は3階建ての3階櫓。これは初重に屋根を設けていないためにそう見えるから。このような外部二重、内部三階建ての櫓は非常に珍しいとされる。

千鳥破風

2階南面、西面には張り出し部分が備わり、この部位に千鳥破風(ちどりはふ)が据えられている。

千鳥破風とは三角形をした小型の屋根のこと。建築の専門用語における千鳥とは斜めに互い違いに設置することを意味するが、言葉の由来としては、まるで水鳥(千鳥)の飛ぶ様を連想させることや、千鳥の特徴ともいえるジグザク歩き(千鳥足)から、この名が付されたとも云われる。

軒唐破風

南面部分には高級さを醸す軒唐破風(のきからはふ)が据えられている。

軒唐破風とは俗に屋根の中央部が弓なりに湾曲した屋根を言ぅ。

別名「未申櫓」

櫓は時代を下りながら進化を果たし、「二十四方位」の思想を採り入れた櫓も見られるようになった。

画像はhttps://upload.wikimedia.org/より引用

例を挙げると、この「未申櫓」やほかに「辰巳櫓(たつみやぐら)」がある。

「未申」は二十四方位においては西南の方位にあたり、「辰巳」は南東の方角にあたる。

これら西南or南東方角に建つ櫓ということで「未申櫓」や「辰巳櫓」と呼ばれるようになってい‥‥‥申す。ギャホェっ

菊の御紋があしらわれた鬼瓦や棟瓦

1923年(大正12年)に西南隅櫓が修理の上再建された折、可能な限り以前の古材を再利用する形で再建された。

しかしながら、老朽化が著しかった屋根瓦のほとんどは葺き替えられ、少し離れて見れば分かるのだが、鬼瓦には皇室の家紋である「菊の御紋」が施されることになった。

この時代、菊の御紋は皇室の御紋として使用が禁止されているのにも関わらず、あえて菊の御紋があしらわれた理由は、この当時、名古屋城は宮内省の管轄に置かれ、「名古屋離宮」とされていたから。

皇族が宿泊する施設ということもあって、この時の修理は宮内省主導で行われたので菊の御紋が瓦にあしらわれた。

西南隅櫓内部の様子

1階の様子

1階の天井部分




2階の様子

堀に面した部分にしかない窓

2階部分から見た景色。虫籠窓状になっているので見づらい。

隅櫓の窓は防御機能を考慮して設計されていたことから、天守とは大きく異なり堀に面した外側だけに開けられていた。

堀以外の面に窓がなかった理由は窓を突き破っての敵兵の侵入を完全にシャットアウトするため。それと万が一の矢玉を警戒しての思惑もある。

格子窓

注目すべきは隅櫓に設けられた窓は、ほとんどが「格子窓」だったということ。

格子は木製で白漆喰(しっくい)が塗られ、格子の外側には白漆喰を塗った板戸がハメこまれた。

板戸が据えられた理由は、板戸を閉めることで格子が隠れて壁と化し、敵は内部の様子をさぐれなくなる。また、矢玉からの防御に一役買ぅ。

図太い竪格子

西南隅櫓の1と2階の窓には実は図太い竪格子(たてごうし)がはめ込まれているが、3階の窓には格子はない。

3階の窓には建造当初から無かったのか、後に除去されたのかは現今に至っては判然としない。

格子は木製だが、防火のために漆喰が塗り塗りと 切れ痔に薬厚塗りするかの如く塗られている。 その度合いが知りたぃ

前述したように窓の板戸は外側に漆喰が塗られているので、閉めることで外壁と同化したように見え、さらに防火性も向上する。

水抜き

⬆️窓下に銅筒が見えるだろぅか

雨が降ると窓の敷居(しきい)には、よく水がたまる。櫓は木造なので水が貯まると耐久性の低下が懸念される。

ちなみに「敷居」とは窓をはめ込むために取り付けられた溝が付けられた部材のこと。テメェなんざ出てぐぇ〜!二度とこの家の敷居をくぐらせねぇぅぇぁ‥‥‥の、「敷居」のこと。

‥‥‥。

そこで建物内への雨水の侵入を防ぐため、敷居に水抜きための小穴が開けられ、小穴の下の壁には銅製の棒状の筒が埋め込まれた。

これにより小穴から出た雨水は銅製の筒を伝って堀(壁外)へ落ちる仕組みになってい‥‥‥まする。(フェイント)

隅櫓を外から見るとすべて窓の下に水抜きの銅筒が付けられているのが分かる。

石落し

石落しがある部分は外部から見ると、壁面から南側へ向かって張り出した出窓状の場所となっている。

この張り出した部分の床面に石落しが設けられている。

石落しとは、前述したように床に開閉式の穴を開け、石垣に接近してきた敵兵に石を落としたり、はたまたに鉄砲の筒先を出して銃撃できるようにした仕掛けのこと。

床には蓋(ふた)を蝶番(ちょうつがい/ドアや蓋などを開閉できるようにする金属製の部品)で取り付けて、これを開けると細長い長方形の穴ボコが見える。

「石落し」と呼ばれているが、実際は石垣に接近した敵兵を狙って、ここから鉄砲にて射撃するための仕掛けでもあった。

鉄砲の筒先を左右に振ることで、キャナリ(訳:かなり)広範囲の守備が実現できたとされる。

通路はライトアップされている

2階部分は光が少ないが、通路がライトアップされているので暗闇の中を進むという心配は皆無。




階段

もはや階段というよりはハシゴに近い。階段の角度が急なので事前に足腰の弱い方は入場を控えるようにアナウンスされているのも分かる気がする。

3階の様子

3階は最上階ということで周囲の眺望が楽しめる。

ただし、3階はスタッフ含め、収容人数が9人と定められているため、2階部分に順番待ちの列ができる場合がある。

この場合、混雑状況によっては3階への観覧が打ち切られる場合があるので要注意。

3階からの眺望

東門の方角の眺望

東門の方角には窓が無いのでこの位置が限界。手前には「きしめん屋(食堂)」の壁がわずかに見えるのみ。

西の丸の方角の眺望

西の丸は正門の方角。写真に見える二棟の江戸時代の米蔵風の建造物は、現在の西の丸城宝館。

この写真を撮影した当時は西の丸城宝館はまだ工事中だったため、関係者以外人がいない。

正門の方角の眺望

それにしても、この西南隅櫓からは正門がキレイに見える。

仮に正門が敵の手に落ちたとしても、この櫓から鉄砲や弓矢にて矢玉をくらわせることもできよぅ。また敵の数や装備、戦闘力なども把握できる。

御深井丸の方角の眺望

御深井丸手前の「鵜の首(うのくび)」が見える。鵜の首とは堀を内側へ入れ込んだ部分のこと。

堀を内側へ入れ込むことによって本丸へ通じる道幅が狭まる。

例えば力攻めにより大軍が城内敷地に押し寄せた場合、このような道幅が狭い箇所があれば通行できるのは少数ということで大軍のメリットが消え失せる。

守備側はこの通路で戦闘することによって、少ない兵力でも大軍と対等に渡り合うことができるので時間稼ぎが実現できる。

本丸の周囲には、万が一の事態を想定してこのような鵜の首がいくつか設けられている。

しかしこの事実を以って当時の時代背景が、つまびらかに理解が進むというもの。この城が築城された頃、豊臣家と徳川家が並存していたが、幕府を開いたことによって豊臣方から徳川方へと天下の趨勢は流れた。

しかしながら、万が一ということも考慮した徳川家康公の思慮深きり高ぶらない性格と、激動の人生を歩んできた教訓というものが、よくにじみ出た箇所ではないだろぅか。

公が「タヌキ」と呼ばれ、恐れられたことがよく分かる。

天守の方角

この西南隅櫓からは天守も見ようと思えばなんとか見える。

それにしても金鯱がまばゆい‥‥✨

名古屋城の屋根の意匠は中華風の軒反りをもたせているので、遠くから見るとまるで水鳥が湖面から羽ばたく様に写る。

これに千鳥破風を据えることで至上の上品さをもたせた、なんとも美しい天守ではないか。




西南隅櫓への入口の場所

西南隅櫓は本丸御殿の黒木書院の前あたりに通路があってその通路を進むと西南隅櫓へあがる階段が見える。

名古屋城内の3つの隅櫓の場所(地図)

  1. 西北隅櫓の場所:御深井丸
  2. 東南隅櫓の場所:本丸
  3. 西南隅櫓の場所:本丸

西南隅櫓への入り方

一般公開されると、本丸御殿の黒木書院の手前に上掲写真のような通路が設置される。観覧者が多ければカラーコーンが置かれて城内整理がはじまる。

奥に案内看板とその右脇に西南隅櫓へ登る石階段が見える。

石階段を上がると西南隅櫓が見えてくる。入口にたどり着くと見張りのスタッフが突っ立っておられて、用意されたスリッパに履き替えるよぅ指示を受ける。

なお、名古屋城のことについて知りたいことがあればスタッフに聞けば色々と教えてくれる。(中には知識にあまり自信のないスタッフもいるので専門的な質問はほどほどに)

隅櫓へ入場する際の注意点

隅櫓は手すりの無い急な階段がある建造物です。

  • 体力に自信の無い方
  • 高齢の方
  • 泥酔された方

以上の方は無理をされないようにお願いいたします。

隅櫓の収容人数

消防法の規定に基づき、各櫓の収容人数はスタッフを含め3階は9名以下。

また、東南・西北隅櫓については棟全体で49名以下と定められている。

西南隅櫓の混雑具合

西南隅櫓の内部は想像以上に狭く、見るものが限られているので客の入出の回転が早いので公開期間中の土日祝日でもそれほど混雑はない。

しかしながら列の混雑具合によっては最終入場時間前に入場打ち切りもあり。

隅櫓の一般公開日はいつ?

櫓の一般公開日は特に定められておらず、公開が決定すれば名古屋城の公式サイトにて情報が掲載されるので、それを待つしか無い。

しかしこれでは心もとない‥‥ということで、詳しく名古屋城にお聞きしたところ、どうやら直近の在り方では、春夏秋冬に開催される各まつりの時に公開されているとのこと。

ちなみに上掲写真はすべて2019年7月13日(土)に訪問した時のものだが、この日、本丸前に見える「ドルフィンズアリーナ」にて相撲(名古屋場所)が開催されている以外、特に何もイベントがなかった。

ひょっとすれば土日に公開されることがあるのかもしれない。もしくは大相撲名古屋場所の開催期間中に公開されることがあるのかもしれない。

なんにせよ1つ言えることは、大勢の人が城内付近に参集する機会がなければ公開される確率は低いということ。

直近の公開期間

  • 2022年(令和4年)1月2日~令和2年1月10日

期間中は江戸時代より完存する3つの隅櫓(東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓)が同時公開される。

公開時間

  • 午前9時~午後4時15分(入場は午後4時00分まで)

見学料金

※当日、名古屋城へ入場した方であれば無料(名古屋城の当日入場券が必要)

【補足】名古屋城の隅櫓が公開される確率が高い期間

名古屋城の春祭り(桜まつり)

期間:例年3月20日頃〜5月5日頃まで
2021年度の実績:3月20日〜5月5日まで
隅櫓の一般公開:3月27日(土)〜4月4日(日) まで実施

名古屋城の夏祭り

期間:例年8月7日頃〜8月15日頃まで
2021年度の実績:8月7日(土)〜8月15日(日)まで
隅櫓の一般公開:8月7日(土)〜8月15日(日)まで実施

名古屋城の秋祭り

期間:例年10月24日頃〜11月23日頃まで
2021年度の実績:10月24日(土)〜11月23日(月/祝)まで
隅櫓の一般公開:10/31(土)~11/8(日)まで実施

名古屋城の冬祭り

期間:例年1月1日〜1月10日頃まで
2021年度の実績:1月1日(金/祝)〜1月11日(月/祝)まで
隅櫓の一般公開:1月2日(土)〜11日(月・祝)まで実施

人気があるのは西北隅櫓?

3つの櫓の中でも城郭ファンに人気があるのが「西北隅櫓」とされる。

名古屋城築城は幕府にとっての一大イベント。なにせ江戸に幕府が置かれてから初となる大事業だといえるほどの大規模工事だった。

使用される用材の確保も容易ではなかったことから、付近にあった清洲城(清須城)の天守、もしくは小天守を移築したと伝わる。

その根拠となるものが、この西南隅櫓には無ぃ、柱に散見される直径5㎝〜10㎝ほどの摩訶不思議な横穴。

この横穴こそ、在りし日の清洲城を解体した用材を当地まで輸送する際に付けられた穴ボコだという説がある。

それゆえ、往時の清洲城の面影を濃く残すと云われ、別名で「清洲櫓」とも呼ばれている。

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