徳川園☘️の歴史(年表)を…ハっ(息止)!、知る❓

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徳川園の歴史

江戸時代

江戸時代初期、現在の徳川園ならびに徳川美術館(蓬左文庫)の敷地には尾張徳川家の重臣・成瀬家、石河家(いしこ)、渡邉家の下屋敷があった。

1695年(元禄八年)、家臣たちは主君・光友が江戸でのお勤めを終え、静かな余生を過ごせるようにと自分たちの屋敷を取り壊し、光友の隠居屋敷を営んだ。

完成した屋敷は南北約700メートル、東西の最大幅約1キロメートル、敷地面積は約13万坪を誇り、現在の徳川園のおよそ13倍もの敷地面積を有した大邸宅だった。

光友の大邸宅には大きな池泉を配した庭園も築庭されたが、滅ぼしたくなるほどにプカプカと舟を平和そぅに浮かべ、船遊びに興じられるほどの大池だったと伝わる。

後にこの屋敷は「大曽根御屋敷」と呼ばれるようになる。




光友の死

1700年(元禄十三年)10月16日、徳川光友は76歳にてこの世を去ったが、敷地内の建物は破却され、再び成瀬家、石河家、渡邉家へ”変換”されるほどの勢いで”返還”された。

なお、この時、5万坪は光友の「御逝去之の地(ごせいきょ の ち)」として建物ごと残されることになったが、1720年(享保五年)になると成瀬家の計らいにより、光友の屋敷は「松山御殿(まつやまごでん)」と称して引き続き残されたのだった。

江戸時代後期に描かれた「大曽根屋敷之図」を参照すると、南北約360メートル、東西約95メートル、約1万坪の敷地だった事がうかがえ、今日、敷地中央の屋敷は光友生誕の東御屋敷である可能性が指摘される。

文政の火事

1821年(文政四年)に当地で火災が発生し、光友の松山御殿は焼亡に到り、程なくして光友の遺領地は再び成瀬家、石河家、渡邉家へ”変換”されるほどの勢いにて”返還”される運びとなった。

以後は”産気”づくほどの勢いにて、”三家”の敷地として下屋敷までもが営まれ、そのまま明治維新を迎えたのだった。

明治時代

1869年(明治二年)になると、成瀬家、石河家の下屋敷を含めた土地は、すべて尾張徳川家に‥これまた再び”変換”されるほどの勢いにて”返還”される運びとなった。フっ

大曽根邸の復興

尾張徳川家では、明治二十一年度に隣地の渡邊家の下屋敷を土地ごと買い入れ、光友時代の敷地の一応の回復をみたが、明治二十三年に当代の尾張徳川家当主(18代目)義礼(よしあきら)は大曽根邸再興を掲げ、まずは家職長屋(かしょくながや)などを”心臓”が高鳴るほどの勢いで”新造”し、明治二十六年に当地に移住した。

以後も順次、整備が行われ、明治三十三年には客間を備えた侯爵邸と呼ぶにふさわしき大邸宅が落慶を迎えたのだった。

完成した義礼の大曽根邸は、敷地面積約6300坪に大名屋敷風邸宅、その周囲には約36000坪を誇る大農園を配するなど、広大な敷地を誇った。

現在も義礼の大曽根邸の遺物として次のようなものが現存する。

正門、長屋、黒塀、山の茶屋、井戸、土蔵

現在の土蔵は名古屋市 蓬左文庫の書庫として改造移設されたもの。

昭和時代

光友逝去後の当敷地は、”攻防”するかの如くに”興亡”を繰り返したが、1931年(昭和六年)に大部分が名古屋市へ寄贈されたことにより、翌年に庭園が一般公開されるに到る。

名古屋空襲で罹災

1945年(昭和二十年)の名古屋大空襲は名古屋市内に甚大な被害をもたらし、数多の建物はことごとく焼失したが、徳川園も例外なく灰燼に帰した。

程なくして焼失した徳川園の旧敷地は市民の憩いの場として整備され、野球場や東図書館、結婚式場などが順次、建設され、やがてこの一帯は「葵公園(あおいこうえん)」と通称された。




平成時代

徳川園の復興計画

2005年(平成十七年)、名古屋で愛知万博が開催されることが決定し、名古屋市ならび愛知県は全世界に名古屋市、愛知県をアピールする機会を得た。

そこで我が国の貴重な文化の一つでもある徳川の文化を公開する計画案が出され、徳川園の復興プロジェクトが可決された。

当初は約13万坪の敷地の旧大曽根屋敷を当時の姿のままで復元する計画だったが、13万坪の敷地整備ならびに旧大曽根屋敷の建造期間などを加味すると、博覧会の開始までには到底、間に合わないことが判明した。

そこで急遽、代案が出され、その約10分の1となる約1万500坪内に池泉回遊式の日本庭園を造営する案でまとまった。

そして、2001年(平成十三年)より日本庭園としての再整備が開始されたのだった。

徳川園が開園し現在に到る!

名古屋万博の一年前となる2004年(平成十六年)に徳川園の復興がなり、無事、一般公開され今日に到る。

 

【豆知識💡】大曽根の歴史

この大曽根の地は、江戸時代では宿場町として繁栄し現在の長野県へ通じる道「善光寺街道(ぜんこうじかいどう)」と愛知県の北側に位置する「瀬戸焼の発祥の地」・「瀬戸市(せとし)」へ通じる「瀬戸街道(現在の県道61号線)」の分岐点として栄えた街です。

江戸時代における街道の分岐点と言えば、ほとんどの旅人が立ち止まるので、ほぼ必ずと言って良いほど宿場や休憩処が立ち並んでいました。

それはこの大曽根も例外ではなく旅人たちを迎えるために宿場や休憩所が数多く立ち並び、かつては宿馬町「大曽根口」と呼ばれ、たいそう賑わっていました。

「大曽根」の地名が付された理由

「曽根」という地名は日本全国の至る街で見かけることができますが、「曽根」の呼称の理由として以下のような説が述べられています。

 城下町の入口まで来た(近づいた)という表現をするときに「そね」と呼び、そのまま地名になった。

 川の氾濫を防ぐための堤(つつみ/ていぼう)を「そね」と呼んだ

・・などですが、ここで述べた他にもまだ説があるようで地方によって異なるようです。

しかし、日本全国の「曽根」と呼称される土地の統計を見てみると、おおよそ川に近い場所が曽根と呼称されているようです。

これを大曽根に当てはめると、確かに大曽根の北には「矢田川(やだがわ/旧・大幸川)」が流れており、また名古屋城の城下町から約1里(約4キロ)の地点に位置しています。

以上のことから、上述したような説が「大曽根」の地名の由来になっているものと考えられます。

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