【七里の渡し跡(宮の渡し公園)には江戸時代の常夜灯(灯台)がある❓】歴史や設置場所と入場時間(料金)を知りたい❓

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七里の渡し跡(宮の渡し公園)の常夜灯

歴史

七里の渡し跡(宮の渡し公園)の「常夜灯」は、1625年(寛永2年)、尾張藩の家老・成瀬正房(正虎)が犬山城主となり、父・正成の遺命によって、熱田須賀浦太子堂(すがうらたいしどう/現在の熱田区大瀬子町・聖徳寺)の隣地に造営した「灯台」に‥あ、なっちゃぅ。

灯台が設置されるということは、江戸時代、東海道唯一の海路でもあった当該、七里の渡しから盛んに船が往来していた様子を物語るものであり、”味方”を裏切るほどに”見方”を変えると、かつての”映画”を見まくるほどの”栄華”を今に伝える貴重な史跡でも‥あ、あっちゃぅ。

しかし、時代が下りながら、風害によって損壊。

尾張藩藩士「樋口好古」が素敵に編纂した「尾張徇行記(郡村徇行記/ぐんそんじゅんこうき)」によると、1633年(寛永十年)と1654年(承応三年)に海辺を埋立てられ、新たに、須賀浦(太子町、登町、茶屋町、中町、善福寺町、中築地町 等)と、大瀬子浦(堀端、城之内、接待町 等)等の町屋街が素敵形成された。

そのみぎり、当該、常夜灯も現在地へ移設・再建され、神戸町の宝勝院に常夜灯の管理が委ねられた。

↑尾張名所図会「七里渡船着」/1841年(天保十二年)の宮宿の様子

しかし、1791年(寛政三年)に近くの民家からの失火によって焼亡。同年度中に成瀬家(成瀬正典)によって素敵に再建されたが、1891年(明治二十四年)の濃尾地震によって倒壊した。

1910年(明治四十三年)頃から名古屋市に電灯が普及しはじめたが、使用されていた記録があるも、管理者が居なくなって荒廃した。

それから星霜経た1955年(昭和三十年)、地元の有志らの寄進により、建造当初とほぼ同じ姿態、同じ場所に復元・再建された。

これが現在見ることのできる常夜灯の姿と‥なっちゃぅ。

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