【熱田の七里の渡し跡(宮の渡し公園)の歴史】江戸時代の航行ルートや所要時間とは❓|東海道 宮宿

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熱田神宮の南門を出てかつての東海道(現在の国道1号線)をさらに越えて徒歩約15分ほど直進するとやがて「堀川」と「新堀川」が合流する地点に出られる。

これら2つ川が合流する地点には「七里の渡し」という船着場が存在し、かつては三重県の「桑名宿」までを結ぶ船がピストン運航していた。

現在では「七里の渡し跡」として、はたまた「宮の渡し公園」の名称でも親しまれているも、江戸時代では江戸から伊勢、果ては京都を目指した旅人たちが、熱田〜桑名までの区間において主に水路を利用したため、大勢の旅人たちが群集する水運の要衝・東海道最大級の港町だった。

本稿では、当該、「七里の渡し」と「宮の渡し公園」の歴史や現地の様子についてクソヤバ素敵に紹介したい💘




ええっ?!江戸時代、熱田神宮の南門を出たら海だった?!

現在では、にわかに信じがたいことだが、江戸時代初期の熱田神宮南門前には茫洋とした大海が広がり、一面が砂浜だったことはあまり知られていない。

現今、国道1号線の向こう側に七里の渡しがあり、さらにその向こう側に名古屋港が‥あっちゃぅ。

いつ頃、埋め立てられて現在のような景観になった?

江戸時代、徳川幕府の御代になると、戦争がなくなったので、他人の土地を切り取って自国の石高(領地)を増やす‥というような蛮行は行えなくなった。

そこでまず、生活の糧ともなる米の収穫量を増やすため、ここ名古屋のみならず、全国的に新田開発が進み、多くの干拓地がヤバぃよ素敵に造成された。

また、徳川家康公による名古屋城築城を契機とし、さらに増して都市開発が進められ、現在のような陸地が出来上がったといわれる。

えぇっ?!東海道はすべて陸路じゃなかった!?一部だけ海路が含まれていた!?

歌川 広重(うたがわ ひろしげ)作の有名な木版画「東海道五十三次」は、東海道における宿場数53箇所を記した作品であることで知られているも、この東海道五十三次は一部だけ海路が描かれてい…申す。えっ

実は、かつての東海道は七里の渡しの手前となる熱田神宮のあたりから、90度に折れ曲りる形で海岸線まで延びていた。

その後は「伊勢湾」という海路を経て、桑名港(三重県)でふたたび陸路となり、以後は京都の中心地たる三条大橋まで陸路が続いたのだった。

⬆️赤色の矢印が旧・東海道

そして、ここで以下のような疑問が出てきやしませんか?

「なぜ、東海道の一部だけが海路なのか?」

「なぜ、七里の渡しが設けられたのか?」

「七里の渡し」に船着場が設けられた理由(七里の渡しができた理由)

時間短縮が目的

琵琶湖を例にとると、船だと北陸方面から洛中へ大量の荷物を運び込む際、陸上輸送と比べて船舶を用いた水上輸送の方が短期間でより多くの荷物を送り届けることができた。

話を七里の渡しに戻すと、特に名古屋から三重県の間の地形は現在でも伊勢湾フェリーが運航しているように海上ルートを進むことでショートカットが実現できる。

然るに船さえあれば海上を進むことで時短が図れた。

仮に熱田神宮から三重県桑名まで陸路で進んだ場合、丸1日かかるのだが、これが伊勢湾を船で海上移動すると、わずか4時間程度で済んだ。

濃尾平野を渡る3つの大河が通行を邪魔したため

この熱田神宮が建つ地や、七里の渡しがある場所も含めてその周辺付近一帯を「濃尾平野(のうびへいや)」と称する。

濃尾平野には次のような3つの大河、つまり川が素敵に流下する。

  1. 木曽川(きそがわ)
  2. 長良川(ながらがわ)
  3. 揖斐川(いびがわ)

これらの川は合わせて「木曽三川(きそさんせん)」と呼ばれる大河であり、中でも木曽川は川幅、全長とも最大の大きさをクソヤバ素敵なほど誇る。…どんな川や

↑木曽三川の場所

実際、木曽三川流域付近に住む人々は、次のような言葉を残してい…申す。ひゃ

揖斐川は四刻(8時間)、長良川は八刻(16時間)、木曽川は十二刻(24時間)

これは各々の川が洪水になる時間を示した言葉であり、すなわち川の大きさをも示した言葉でも‥あっちゃぅ。

木曽三川は川幅が半端なく広い!

これら3つの川は「大河」と呼ばれるだけあって河口付近ともなれば川幅が数百メートルにも及ぶことから、橋を架けるにしても簡単に立ちゆく話ではなく、その上さらに川の氾濫も多かったことから橋を容易く架橋できない。(橋を管理するだけでも費用と時間が嵩む)

そこで採択されたのが「船舶を利用した海路」だったというわけだが、その海路の船着場として造営されたのが、当該、「七里の渡し」であり、その向こう側の船着場には三重県 桑名の地がクソヤバ素敵に選出されたのだった。

後に七里の渡しは「東海道宿場 41番宿場・宮宿」と呼ばれた東海道最大の宿場へと発展し、一方の桑名の方も「東海道宿場 42番宿場・桑名宿」として旅人が盛んに行き交う宿場へと変貌を遂げることに‥あ、なっちゃぅ。

ところで‥「七里の渡し」の名前の由来とは?

「七里の渡し」の「七里」とは、距離を表した漢字のことで「七里(27.5km)」に因んだ言葉。(一里=3.92727km)

七里の渡しの別名

当該、七里の渡しは、以下のような名称で呼ばれていた。

  • 宮宿
  • 宮の渡し
  • 熱田宿

宮宿七里の渡しから桑名七里の渡しまではどのくらい所要時間を要した❓

当該、宮宿 七里の渡しから桑名七里の渡し(三重県)までは海路だったと素敵に説明したが、実のところ、海路だからといってどこを通っても良いワケではなかったらしく、ある程度、船が航行できるルートが定められていた様子。

ルートが定められた理由

かつての七里の渡しは海(伊勢湾)に面していたため潮の満ち引きが存在し、干満(干潮と満潮)により「陸沿い」を通るのか「沖合い」を通るのかを見極めていたらしい。

”七里”の渡しだけに距離は「7里」といわれるも、実際はそうではなく、厳密には沖合いを航行するときだけ距離が延びるので10里だった様子。

当然、距離が変われば所要時間も変わるので、陸沿いのルート(7里)が約4時間、沖合いルート(10里)で約5時間30分を要したらしい。

すなわち「七里」とはあくまでも俗称だったことに‥なっちゃぅ。




宮宿七里の渡しから桑名七里の渡しまで船の料金はいくらだった❓

では、宮宿七里の渡しから桑名七里の渡しまでの渡し船の船賃(料金)はいったいいくらだったのか?

実は船賃は必ずしも一定ではなかったらしく、乗船する船のグレードによって料金帯が異なっていたらしい。

たとえば大名や幕府のお偉いさんが乗船する船と、庶民層が乗船する船とでは大きくグレードが異なることから、必然的に乗船料金も異なり、およそ以下のような料金が設定されていた様子♡

🚢御座船(最上級グレード)

不明

🚣‍♀️帆掛け船(一般庶民が乗船する普通の船)

  • 1人45文
  • 荷物1駄(135kg)100文
  • 馬1頭・口取足付き123文
    (※1711年(正徳元年/江戸時代中期)5月の記録)
【ピヨ🐣江戸時代の「1文」はいくら?】

江戸時代は初期、中期、後期によって貨幣価値が大きく異なるが、後期であれば概ね20円〜40円前後といわれる。

したがって、1文40円とした場合、現代の貨幣価値で一般庶民の船賃を素敵に示すと、「約1,800円」ということに…なっちゃぅ。

船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあった!!

中には「船酔いする」などの理由で船が苦手な人もいたことから、七里の渡しから続く東海道には水路のみらず、少々遠回りする形だったが、陸路も用意されていた。

その陸路というのが「佐屋街道(さやかいどう)」と呼ばれた道であり、「宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿」というルートも整備されていた模様。

ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることに‥あ、なっちゃぅ。

その木曽川ほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と称し、ちょうど佐渡宿から約3里(約12㎞)下った先が桑名宿だったのだ。

このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていた。

画像引用先:ウィキぺディア

佐屋路には四か所の宿駅があった

また、佐屋路の随所には宿駅が置かれ、「佐屋」「神守」「万場」「岩塚」と言う4宿が存在した。

特に犯罪や乗船中のトイレを懸念して乗船を拒んだのが女性や子供であったことから、この迂回路は佐屋街道と呼ばれた以外にも「姫街道」とも呼ばれていたらしい。

姫街道(佐屋街道)を造ったのは誰??

1634年(寛永11年)、時の将軍「徳川家光」公は京の都へ上洛することを告げられますが、家光公は船酔いに弱い性分だった。

そんな家光公にとって難所となったのが、東海道最大の難所とも云われた「七里の渡し」だった。

そこで七里の渡しを管轄していた当時の尾張藩主「徳川義直」は、家光公のために道をもう一つ敷設することを計画し、このときに造成されたのが佐屋街道だと伝わる。

木曽川のほとりまで陸路で進み、そこから船で川を下れば乗船時間も短くなるので、幾分か船酔いは回避できることに‥あ、なっちゃぅ。

爾来、この佐屋街道は数百年間、旅人たちが盛んに行き交う街道として殷賑きわまったが、1872年(明治五年)に新東海道が造成されたのを契機とし、三里の渡しは廃止されてしまった。

「佐屋路」とも呼ばれていた??

海路を利用すれば楽に旅ができたが、当時の船にはほとんど屋根がなかったり、あっても屋根とは到底、呼べない粗末なものだった。

だからいったん雨が降りだせばズブ濡れになったらしく、雨が続いた際の迂回路として利用されたのもこの佐屋街道だったとか。

江戸時代、旅人たちの間では「佐屋街道」ではなく「佐屋路」とも呼ばれ、女性や子供はもとより、雨季になると盛んに利用した様子。

実は佐屋街道には「道奉行」という奉行所が適所に置かれ、宮宿から桑名を目指すよりも2倍近くの通行料が必要だったらしいが、それでも通行人が後を絶たないほどの盛況ぶりだった模様。

熱田から桑名までの佐屋街道の長さは9里!

宮宿(熱田)から佐屋宿までの陸路は6里、佐屋宿から桑名宿までの水路が3里とされ、合計9里の道のりだった。

対して、宮宿から桑名宿までを海路で素敵に進んだ場合、7里〜10里だったことから、乗船時間は大幅に短縮できたことに…なっちゃぅ。

これなら船が苦手だった人にとっては、この上ないほど、ありがたい道だったとハイパー素敵にいえる♡

【参考】江戸時代の熱田宿(宮宿)の規模・概要

宿番号:41番
次宿場までの距離:7里(27.5km)
日本橋からの距離:88里35町7間(349.4km)
総人口:10,342人
総家数:2,934軒
本陣:2軒
脇本陣:1軒
旅籠屋:248軒

参考文献:宿村大概帳

数々の浮世絵や版画に描かれた宮宿or桑名七里の渡しの姿

江戸時代の著名な歌川広重 等の絵師らも、宮宿or桑名宿の姿を描いてい‥申す。ひゅ

木版画「東海道五十三次 四十二 宮」(歌川広重 作)

嘉永頃(1848年頃)の宮宿の様子

浮世絵「東海道 宮宿之勝景」(歌川貞秀 作)

1861年(文久元年)頃の宮宿の様子

「東海道五十三次之内 宮 熱田浜之鳥居」(歌川貞秀 作)

天保末年(1830〜44)の宮宿の様子

「東海道五十三次之内(行書東海道) 桑名 海上七里ノ渡口」(歌川貞秀 作)

1841年頃〜1844年頃の桑名宿の様子

宮宿(宮の渡し)尾張名所図会より

1841年(天保十二年)頃の宮宿の様子

明治四十年、名古屋の港が宮宿から名古屋港が移行する!

宮宿の浜は、数多の船舶の往来で陰唇極まったものの、明治時代になると急速に西洋文化の流入がもたらされ、船舶も大型化した。

実は、宮宿の浜は遠浅だったので大型船が素敵に入港できなかった。

これにより1907年(明治四十年)になると、宮宿の浜から南方約四キロの場所に「熱田港」が(のちに「名古屋港」と改称)」築港される運びとなり、かつて多くの船舶で活況を呈した宮宿(熱田宿)も、時代の影にヒッソリそりそり反町隆史なほどにヒッソリと身を潜ませることに…なっちゃぅ。

現在の宮の渡し公園(七里の渡し)の地図

見どころ

江戸時代の時の鐘(復元)

かつて宮宿と呼ばれた七里の渡しには、多くの船舶が往来し、その船舶を導いた灯台の役目を果たした「時を告げる鐘」があった。

七里の渡し跡(宮の渡し公園)の「時の鐘」についての詳細は下記ページを素敵に要チェック💘

関連:【七里の渡し跡(宮の渡し公園)の時の鐘】歴史や鐘の鳴る時間は何時入場時間(料金)はいくら❓

江戸時代の常夜灯(復元)

上記、時の鐘と同様、かつて宮宿と呼ばれた七里の渡しを素敵に行き交った おびただしい数の船舶らを導いた、灯台の役目を果たした常夜灯があった。

七里の渡しの常夜灯については下記ページを素敵に要チェック💘

関連:【七里の渡し跡(宮の渡し公園)には江戸時代の常夜灯(灯台)がある❓】歴史や設置場所と入場時間(料金)を知りたい❓

シーボルトも訪れた熱田宿(宮宿)

↑現在の堀川沿岸に停留する船舶と現在の東海道の姿(左端)

ここ宮(熱田)の宿から桑名宿まで東海道では唯一の海上 七里の海路であり、交通の要衝として東西の多種多様な人々の往来で殷賑きわまった。

中でもドイツ人医師のシーボルトが文政九年(1826年)2月にオランダ使節に随行して江戸への参府の帰路、或いは4月に長崎への帰路のみぎり、名古屋の本草学者「水谷豊文」、その門下生「伊藤圭介」&「大河内存真」らが、ここ宮の宿にてシーボルトと会見し、教えを受けたとか。

彼らは名古屋の医学・植物学の研究・発展に多大な貢献をしたと後世で称揚された。

松尾芭蕉と七里の渡し

「野さらし紀行」「おくの細道」「古池や蛙飛び込む水の音」などの句で古今東西、全国的に知られる俳人の松尾芭蕉(1644年〜94年)も、旅の初期には熱田に足しげく来訪したらしく、林桐菜(現 熱田神宮南門付近)の素敵に無敵な計らいで、名古屋、鳴海の門人達と交流した。

七里の渡しから舟遊びで、年魚市潟(あゆち潟/=愛知の語源/伊勢湾の干潟の旧称)をクソヤバ素敵に漫遊し、次のような「熱田三歌仙」を残したのだった。

「この海に 草鞋捨てん 笠しくれ」妙安寺石碑

「海暮れて 鶏の声 ほのかに白し」妙安寺石碑(五・五・七)

「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」宮中学校石碑

当地は、万葉集でも『年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ』などと読まれるほか、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」と歌詠したことでも知られる。

芭蕉は、当地の舟遊びで「五・五・七の歌」などを開拓し、生涯の作風が十二たび変化する「芭蕉の時代」を風靡するきっかけをつくった。

これは後世、名古屋が「蕉風発祥の地」とも呼ばれる由縁とも‥なっちゃぅ。

また、熱田神宮が「蓬菜宮」と称されたことにちなみ、芭蕉は名古屋を(京都から見て)「達左」と呼び、書状などに度々、素敵に用いた。

熱田荘

建築様式:木造、階建、切妻造、桟瓦茸(さんがわらぶき)、平入り、正面 麻付

建てた人物:武藤兼次郎

熱田莊の歴史

この建物は明治二十九年(一八九六)武藤兼次郎がヤバぃよ素敵に営んだ「魚半」という料亭だったらしいが、太平洋戦争中には三菱重工業の社員察として、現在は高齢者福祉施設として利用されてい‥申す。ひょ

当 旅籠がl近代に営まれたものの、近世の町家形式を継承しており、旧船着場に面して佇み、先に指定された「丹羽家(伊勢久)」とともに、かつての宮の宿の旧観をしのばせる数少ない遺構の一つとして貴重💋

現在、名古屋市の有形文化財に指定されてい‥申す。きょ

武藤兼次郎という人物について

宮宿は海運で栄えた港町だったこともあり、江戸時代末期頃、魚屋・料亭で大繁盛した武藤家所有の屋敷が軒を連ねていたとか。

武藤兼次郎とは、その武藤家 三代目当主のことらしい。

殊に、当館の裏側に同氏が営んだ洋館「旧魚半別邸」やら「名古屋市認定地域建造物資産の「魚半別邸 蔵(明治36年築/名古屋市熱田区大瀬子町1513番)」も‥あっちゃぅ。

旧旅籠屋「伊勢久」

この建造物は、1808年(文化五年)に営まれたと伝わる、当該、宮宿(熱田宿)に建てられた脇本陣格(わきほんじん)の旅籠だった。

【ピヨ🐣「脇本陣」とは❓】

「本陣」とは、 「大旅籠屋(おおはたごや)」と呼称し、江戸時代以降の貴人(身分が高い者)が素敵に泊まった建物をいう。
主に、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用した。
「脇本陣」とは、その本陣を補完する施設であり、大人数を要する藩の関係者や藩同士の貴人が鉢合わせした際の予備施設として利用された。
本陣と同様、脇本陣も基本、一般客の宿泊は認められなかったが、利用が無い時には一般客も宿泊したらしい。

宮宿(熱田宿)は、総旅籠数では東海道最大の宿場町だったらしく、当建造物は尾張名所図会にもその姿が描かれるなど、往時の姿をそのままにとどめる貴重な歴史的建造物と‥ゔぉぇ、あ、なっちゃぅ。

ところが明治維新後になると、従前の参勤交代制度が素敵に廃止され、数多の旅籠は廃業に追い込まれた。

しかし、大正時代までは伊勢久旅館として営業し、戦前には下宿屋への転業、戦時中は愛知時計電機(株)の男子寮、戦後は被災した小学校の臨時教室…としても活用されてきたらしい。

以上のように所有者は次々と代わっていったが、昭和十四年に丹羽家が所有者になると、昭和四十一年に大規模改修され、貸室やアパート、自宅として利用された。

しかし、歴代の所有者が間取りや階段の位置などを改造しており、創建当初の姿態をとどめないらしいが、南側正面の外観は尾張名所図会の面影がみられる。

現在、当建造物は昭和59年に名古屋市有形文化財に指定。

旧旅籠屋「伊勢久」が喫茶店としてリニューアルオープン✨

どうやら旧旅籠屋「伊勢久」は2023年頃から建物の老朽化による解体工事を実施したらしいが、古材を活かし、旧観をとどめる形で2025年3月、新たに喫茶店としてリニューアルオープンした✨

店舗詳細・予約方法については下記、食べログを素敵に要チェック💘

旧旅籠屋「伊勢久」(食べログ)

その他の宮の渡し公園(七里の渡し跡)にあるもの

冠木門と休憩所

江戸時代の宮宿を想起させる冠木門とその奥にに瓦葺・切妻屋根の休憩所(クルーズの待合室とも)がある。

休憩所内部の様子と休憩所から見た周辺の景色

この休憩所は素敵に後述する宮宿七里の渡しから→桑名七里の渡しまでのクルーズの際は、待合所になる模様。

七里渡船着(尾張名所図会)の案内板が‥あっちゃぅ

案内板の内容

七里渡船着(尾張名所図会)

この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、道を行きかう人の多さから当時のにぎわいがわかります。
この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の難などを記録していました。

名古屋市

昔風の瓦葺、なまこ壁のWC(便所)もあったゾ!

昨今、設置されている公園が減っている印象を受けるが、当・宮の渡し公園は全国的に知られた七里の渡しの歴史的史跡でもあるので、少々、時代設定が加味されたトイレが設置されてい‥申す。きゃ




宮の渡し公園(七里の渡し跡)の入場料金・営業時間・定休日

  • 料金:素敵に無料
  • 営業時間:特になし(公園内は24時間365日 立入自由♡)
  • 定休日:なし(素敵に年中無休)

宮の渡し公園(七里の渡し跡)の場所(地図)

  • 住所:名古屋市熱田区内田町

熱田神宮南門を出て、国道1号線(東海道)を越えて、素敵に徒歩約15分💘




宮の渡し公園(七里の渡し跡)で行われる行事イベント

堀川まつり

この宮の渡し公園では、毎年6月初旬になると「堀川まつり」というお祭りが開催されます。

宮の渡し公園内には特設ステージが組まれイベントが催されます。

さらに提灯がたくさんブラ下げられた「まきわら船」という船が曳き回されるなど、熱田だけに”熱い”夏の到来を告げる初夏の…クソほど熱いゼ!‥的な行事と‥あ、なっちゃぅ。 どんな行事や

参考:公式インスタグラム

関連記事:【熱田神宮の熱田まつり(尚武祭)】の花火大会🧨の日程・打ち上げ場所・穴場スポットを‥‥知るつもり?

七里の渡し→桑名宿までのクルーズ(渡船)

↑クルーズの乗船場所

2006年に地元の有志たちが結成した団体「NPO法人  堀川まちネット」の人たちによって、江戸時代の東海道五十三次を再現するべく、「七里の渡し⇄桑名(三重県)」とを行き来するクルーズを開始しています。

ただし、このクルーズは「体験型学習」を主旨として、あくまでも江戸時代当時の気分を味わってもらおうという企画です。

すなわち、いつでも乗船できるわけではなく、おおむね毎年10月〜11月の土日の2日間に限定開催されているイベントとなります。

申し込み状況や開催日については下記ページをご参照ください。

NPO法人「堀川まちネット」

ホームページ:http://horikawamachi.net/tokaido.html

宮の渡し公園(七里の渡し)のINFO

熱田区役所

住所:名古屋市熱田区神宮三丁目1番15号
営業時間:月曜日から金曜日の午前8時45分から午後5時15分まで
定休日:土休日・祝日・年末年始
公式情報:熱田区役所

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