それはホンマの話でっか!!熱田神宮の西門前が源頼朝の生誕地だった?!

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名古屋在住以外の方が熱田神宮へ訪れると、知る由もないことだとは思われますが、なんと!熱田神宮の西門の目の前になんと!!あの源氏の総大将・源頼朝の生誕地があると言われています。

そして源頼朝の生誕地と言うのが、熱田神宮の西門の目の前を走る「伏見通り」を挟んで向こうにある「誓願寺」と言う寺院だというのです!

以下ではこの誓願寺というお寺と源頼朝伝説についてご紹介していきます。

名古屋・熱田「誓願寺」

名古屋 誓願寺

創建年

1147年(久安3年)以前※藤原季範・別邸
1529年(享禄2年)※誓願寺

山号:妙光山
宗派:浄土宗西山派
別名:誓願尼寺妙光山誓願寺
本尊:木造阿弥陀如来座像
開山:善光上人(日秀妙光)
札所等:阿弥陀願所40番、府下地蔵31番




名古屋・熱田「誓願寺」の歴史

誓願寺は1529年(享禄2年/室町時代)に善光上人によって創建されています。

しかし、それ以前は藤原季範(ふじわらのすえのり)の屋敷(別邸)があった場所だと云われています。

藤原季範とは、父親が当時、尾張国の国司を担当していた藤原季兼で、母親が尾張氏の一族である尾張員職(おわりかずもと)になります。

つまりは貴族である藤原氏と、熱田神宮の創建した宮簀媛(みやずひめのみこと)の血を引く人物でもあります。

以降、藤原季範の子孫が代々熱田神宮の大宮司を歴任しています。

この藤原季範には「由良御前(ゆらごぜん)」と称する3番目の娘がおり、源頼朝の父親である源義朝と結婚することになります。

結婚した後の1147年(久安3年)に、現在の誓願寺が建つ場所にかつて存在した別邸(実家)に帰り、ここで源頼朝を産んでいます。

1600年(慶長5年)に火災で焼失していますが、すぐに豊臣秀頼の発願によって再建されています。

また1945年(昭和20年)6月9日の「名古屋大空襲」によって伽藍全体が焼失し、戦後に再建され現在に至っています。

誓願寺境内の「産湯の井戸」

実は誓願寺の境内には「産湯の井戸」と呼称される井戸があります。

かつては井戸はなく池があり、この池の水を汲んで頼朝卿が生まれた時の産湯に使用したようです。

しかし時代を経る過程で藤原氏の別邸ではなくなり、池も埋もれてしまい、その別邸跡地に上述の誓願寺が1529年(享禄2年)に創建されています。

第二次世界大戦後に、地元の方々の「頼朝の産湯に使用した池が無いことが惜しまれる」と言う声が上がり、池ではなく井戸として復興され現在に至っています。

えぇっ?!源頼朝の生誕地は2つ存在する??

尚、この誓願寺の周辺一帯は平安時代末から鎌倉時代までは熱田大宮司家の下屋敷が多数立ち並んでいたそうです。

そして実際に宮司として熱田神宮を総括していたのは、大宮司に仕える権宮司家と呼称された尾張氏であり、大宮司家である藤原氏は官職に就いていましたので京都で生活していたようです。

以上のことから頼朝の生誕地については、名古屋熱田説と京都説とがあるようです。

終わりに・・

現在の請願寺の入口には「右大将頼朝公誕生舊地」と大きく刻まれた石碑が建てられており、他にも名古屋市が立てた案内板もありますので誓願寺の場所はスグに分かるかと思います。

熱田神宮の西門前が源頼朝の生誕地熱田神宮の西門からも目視できますので、ご興味がある方は是非!源頼朝の生誕地をご覧ください。

ただし、現在の誓願寺は我々が知る一般的な寺院の姿を留めておらず、戦後の再建で鉄筋コンクリート造りのビルのような建物になっています。

この建物の前に境内があり、その一角に上記の源頼朝の産湯の井戸があります。

現在では、この産湯の井戸は「東海地方屈指の名泉」とも言われているようです。

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