熱田神宮・八剣宮【熱田神宮 別宮】
創建年
- 708年(和銅元年/奈良時代)
再建年
- 1291年(正応4年)
- 1575年(天正3年)
- 1599年(慶長4年)
- 1686年(貞享3年)
- 1893年(明治26年)「尾張造り」から→「神明造り」へと改造工事
- 1963年(昭和38年)
- 2013年(平成26年)12月1日※修造
建築様式(造り)
- 切妻造り
- 平入
※神明造
屋根の造り
- 銅葺
鰹木の数
- 4本
千木の形
- 内削ぎ
御祭神
- 熱田大神
相殿神
天照大神(あまてらすおおみかみ)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやずひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
社格
- 熱田神宮・別宮
熱田神宮・別宮八剣宮の読み方
別宮八剣宮は「はっけんぐう」「やつるぎのみや」と読みます。
また、「別宮」以外にも「下之宮(しものみや)」や「外宮(げくう)」とも呼称します。
「八剣宮」の名前の由来
八剣宮とは、一見すると「八本の剣」と読むことができますが、名前からしてすでに本宮でお祀りされている神剣と意味深な繋がりをイメージさせます。
しかしながら、実際は「八本の剣」ではなく「八」は「弥栄」の「弥」と言う意味合いがあります。
「弥」とは、「弥栄(いやさか)」の「弥」と言うことで「ますますの繁栄」を意味します。
実はこの八剣宮では熱田神宮の御神体である草薙の神剣が奉斎されていたことがあり、御神体の益々の繁栄を祈願して奉安する御殿ということで「八剣宮」とされてい‥‥‥申す。ガホェっ
八剣宮の別名
この八剣宮はかつては以下のように呼ばれていたこともあったようです。
八剣神社
延喜式内においては「小社・愛智郡 八剣神社」の記述が見られます。
八剣明神
本国帳貞治本内の記述によれば、「正一位 八剣名神」の名前が見られます。
八剣大名神
同元亀本の記述によれば「正一位 八剣大名神」の名前が見られます。
「八剣宮」と呼ばれるようになったのはごく最近!
実は「八剣宮」と称されるようになったのは明治13年1月のことであり、それまでは時代の変遷により、上記のような名前で呼ばれいたとされ、古くは「別宮」や「外宮」、「下の宮」などと呼ばれていたこともあったようです。
ところで‥‥「別宮」とは?
別宮とは「別宮(べつぐう)/わけのみや」と読み、本宮に次ぐ社格を備えた宮のことを意味します。
本宮でお祀りされている草薙の御剣に宿りし、熱田大神の分神(分けた神霊を祀る社)を奉斎するお宮のことをいぅ。
すなわち、八剣宮には熱田神宮本宮と同じ神様(熱田大神)が祀られています。
八剣宮は本宮に次ぐ格式をもつ社!
この八剣宮は本宮と同形式の宮域が存在し、本宮で斎行される年中儀式(祭典・神事)の大部分がこの八剣宮でも執り行われてい‥‥申す。バギャっ
この事実を以ってして、八剣宮は宮域にて本宮に次ぐ地位というのも、まずは理解できます。
熱田神宮・別宮八剣宮の内部構成
まず、手前には拝殿があります。
一般参拝者が神に拝する場所とのことで「拝殿」と呼ばれます。この拝殿に連接する形で外界との境目の壁として立つのが「外玉垣(いわゆる壁のこと)」です。
拝殿の奥には「内玉垣御門」が控え、この御門にはさらに瑞垣(みずがき)という壁が備わり、まるで後方に位置する八剣宮の本殿を手厚く護るように取り囲んでい‥‥‥まする。(フェイント)
熱田神宮・別宮八剣宮の歴史
創建
708年(和銅元年)9月、元明天皇(第43代天皇/女性天皇)の命令により新造された宝剣を祀るために建てられたのが八剣宮の草創と云われます。
このことは尾張初の官撰地誌である「張州府志(ちょうしゅうふし)」に記されてい‥‥申す。ヘイ、ゴー
また、「名古屋市史の社寺編」には次のような記述が見られまする。
和銅元年(708年)九月九日、阿倍宿奈麿(あべのすくなまろ)、多治見真人池守の両名を勅使として熱田へ下向させ、新造の宝剣を奉安せしめ、創祀に至った。
平城京遷都の構想が本格化したのが、和銅元年3月13日(708年4月8日)のことであり、この時、造宮職が造宮省へと昇格し、初代造宮卿に大伴手拍(正五位上)が任命されてい‥‥申す。ヘイ、ユー
また、708年9月には阿倍宿奈麿と多治比池守の両名がともに「造平城京司長官」に任ぜられ、平城京造営の責任者となっています。
つまり、これら経緯を考察すると、平城京鎮守のための儀式の1つとして新造した宝剣を奉安することで、神のご加護を賜ろうとしたという事実が浮き彫りになってき‥‥申す。ヘイ、タァクゥシィ(タクシー)
八剣宮は現在地にはなかった
八剣宮は当初、現在地よりも少し東側、もしくは南門(一の鳥居)をくぐってすぐの左脇に建てられていたと云われますが、明治26年に改築が執り行われており、このときに現在地に再建される形で移築されてい‥申す。ヘイ、マンゴ!
戦国時代
熱田神宮に宝剣が奉安されている事実は古代より踏襲され、特に武士の信仰の対象となってきた歴史がありまする。
有名どころでは、織田信長、徳川家康、徳川綱吉らが、社殿の修造や建て替えを行なった伝えられています。
特筆すべきところでは、1575年(天正3年)5月13日、織田信長が武田勝頼との命運を分ける「長篠の合戦(ながしのかっせん)」に赴く際、中央からこの熱田社へ立ち寄っています。
その折、熱田の名工であり自身の懐刀の1人とも云われた「岡部又右衛門(おかべ またうえもん)」を総監督に任じ、戦勝祈願を兼ねて熱田神宮の社殿全般の改修・造営を行ってます。
江戸時代
1599年(慶長4年)8月、徳川家康が浅野長政に命じて本殿・拝殿・回廊などを改修し、1601年(慶長6年)6月に屋根の葺き替え工事を実施しています。これは太閤秀吉がこの世を去り、新たな徳川の御代を築くための戦勝祈願ともみれまする。
1603年(慶長8年)7月、 今度は徳川家康公が直に発願し、八剣宮を再建しています。これは江戸幕府創設による日本統治の永続と恒久平和の祈願だとみれます。
1686年(貞享3年)、将軍・綱吉公の御代には幕府主導による大規模改修工事が実施されており、幕府からは修復奉行として「石丸定勝」「西山昌春」が送り込まれ、両名の指揮により工事が行われています。
1686年(貞享3年)、4月8日に工事開始となる手斧始(ちょうなはじめ)の儀式が執り行われ、境内の社殿群、堂宇、門などの改修が逐次、執り行われまする。
1686年(貞享3年)、7月9日には工事終了、7月21日に本宮および八剣宮の遷宮の儀が執り行われています。
大規模工事であったにも関わらず、このように約3ヶ月で完工できたのは、ひとえに綱吉公のお力によるものです。
おそらく大勢の大工たちが境内に寄せ集められ、実施された大工事だったことが想像につきます。
1839年(天保10年)1月19日には、八剣宮に奉安されていた御神体(草薙の神剣)を出自不明の謎の僧侶が盗み出し逃亡。その後、すぐに捕縛されて未遂に終わる。‥‥‥という事件が起こってい‥‥‥申す。チャヅケ ハ ナガタニエン
明治時代
1868年(明治元年)6月、熱田神宮にとって大きな出来事が起こります。
それまでの名称は「熱田社」でしたが、晴々、政府より「神宮号」が宣下される運びとなり、熱田社から→「熱田神宮」へと改称されてい‥‥‥申す。ポテチ ハ カルビィ
1893年(明治26年)に境内の社殿ほぼすべてと、境外の社殿の一部がそれまでの「尾張造り」から、「銅葺き屋根」と「神明造り」を備えた社殿へと改造されています。
また、明治天皇が熱田神宮へ下向された折、内侍所(ないしどころ/三種の神器の神鏡)を当宮の渡殿に定めて仮泊しています。
昭和時代
昭和の時代になると、三種の神器を奉斎した社であることが、ようやく公然と認められ、神宮(伊勢)とほぼ同列の社格へと格上げされています。
平成時代
2013年(平成26年)1月には、約80年ぶりとなる改修が行われています。
熱田神宮・別宮八剣宮の御祭神「熱田大神」とは?
八剣宮で祀られている神様は「熱田大神(あつたのおおかみ)」と呼称し、熱田神宮の本宮で奉斎される神様と同じ神様です。
すなわち熱田大神とは、三種の神器の1つである「草薙の御剣(草薙神剣)」に宿りし「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の神霊だとされています。
熱田大神はなぜ天照大御神なのか?
ご存知の方も多いと思いますが、草薙の神剣は天照大御神の弟神「スサノオノミコト」が退治した山の神とされる「ヤマタノオロチ」の胎内から出てきたものです。
その剣はスサノオノミコトによって、「天叢雲の御剣/あめのむらくものみつるぎ)」と命名され、姉神である天照大御神へ献上してい‥‥‥申す。グハっ
剣を受け取った天照大御神は、天孫降臨の折、配下であり甥の「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」に天叢雲の御剣を授けています。
地上へと降り立ったニニギは剣を自らの宮中へと奉安し、以来、天叢雲の御剣は宮中よりお外へ出ることはなく「三種の神器」として長らく宮中にて安置されることになりまする。
以来、ニニギの子孫たちが天皇として御代を築くのですが、やがて宮中(皇居)から外部へ持ち出されることになる事件が起こり、紆余曲折を経て、最終的に「日本武尊(倭建命/やまとたけるのみこと)」という武人の手に渡りまする。
その日本武尊が戦の最中、猛火に囲まれた折、振るった天叢雲の御剣が草を薙ぎ払って身を護ったことから、武尊により「草薙の神剣」と改称されてい‥‥‥申す。ソアラ ハ トヨタ
しかしその日本武尊も帰らぬ人となり、武尊の妻である宮簀媛が夫(武尊)が残した遺品となる草薙の神剣を祀ることになり、社殿を築くのです。これが現在の熱田神宮です。
‥‥‥とまぁ、以上のような経緯から熱田大神は天照大御神のことだとされてい‥‥‥まする。(ちょぃ休憩。ネタを充電)
熱田神宮の「本当の御祭神」とは?
熱田神宮の御祭神である「熱田大神」は謎多き神様として広く認知されています。
それもそのハズ、歴史上に「熱田大神」にまつわる由来・伝記など、ほとんどと言って良いほど記録に残っていないからです。
一説には、「饒速日(ニギハヤヒ)」とも目(もく)されていたこともあるようですが、定かではありんせん。
しかし、熱田神宮の古代の社殿の造りやその歴史を鑑みるに、元来の御祭神は「尾張氏の祖先」であり、分かりやすく言うところの草薙の太刀に宿りし「日本武尊の御霊」を奉安している説が有力であると考えられます。
尾張氏(おわりし・おわりうじ)は、元来、天照大御神の甥である「瓊瓊杵尊」を祖とし、その子孫が「尾張国造(おわりのくにのみやつこ・おわりこくぞう)」を名乗り、代々、熱田神宮の神官(大宮司)を歴任し「草薙の神剣」を守護するお役目を担っています。
日本武尊と尾張氏のつながりとは、尾張国造の祖先とも云われる「乎止与命(おとよのみこと)」の娘の「宮簀媛(みやずひめ)」を武尊は嫁にもらっています。
この時に尾張国造家の組織に与(くみ)し、宮簀媛の兄である「建稲種命(たけいなだねのみこと)」を副将軍として自らの配下とし、実質上、尾張国造家の当主に着任しています。
この後の遠征の折、なぜかゼカぜか、愛刀の草薙の太刀(草薙神剣)を帯刀せずに嫁ハン(宮簀媛)に預け、近江(滋賀県)へ遠征に赴いて敵に毒をもらっています。
そして、この毒が原因で伊勢国・能褒野(のぼの)の地で儚くも命を散らしています。
一方、武尊の悲報を耳にした嫁の宮簀媛は嘆き悲しみながらも、武尊の形見とも言える草薙の御剣を祀ることを決意し、現在の氷上姉子神社(愛知県名古屋市緑区大高町字火上山)が建つ地に熱田社(熱田神宮)を創建するに至り申す。
‥‥‥とまぁ、ここまでで分かることとは、天照大御神の御霊が草薙の太刀にもお宿りしていると言う説は、とても受け入れがたい説であるということ。
つまり、実のところは尾張氏が政治的な力を増大させる目的で「天照大御神」の御名を担ぎ出し、熱田神宮の社格を神宮(伊勢)と同格に引き上げる必要性があったからであるとも考えられています。
にも関わらず、あくまでも草薙の御剣は天照大神の御霊と定める理由は、日本武尊は実在しない人物とされているからに他ならないからでしょう。
えぇっ?!かつて八剣宮にて草薙の神剣が収められていた?!
冒頭でも述べたように、この八剣宮は持統天皇が元明天皇の宝剣を奉斎する目的で造営されたが創建の理由になるのですが、日本書紀の中に「686年、当代の天皇である天武天皇が病床に倒れ、草薙の神剣の祟りであると決めつけて宮中より熱田社(熱田神宮)へ送って遠ざけた」‥‥という旨の内容が記されています。
この後、草薙の神剣は熱田社でも盗難に遭うのですが、このとき尾張氏(熱田社の社家)が盗まれたのを朝廷に知られれば一大事と言うことで事実を伏せるために、急ぎ形代(かたしろ/いわゆる複製)を製刀させており、それが現在の草薙の神剣という異説もあり申す。
持統天皇の御代にはすでに宮中に草薙の神剣はなかった?
「古語拾遺」の記述によれば、草薙の剣の複製が作られたのは、上記のような経緯から天武天皇の次代天皇である持統天皇が有力だとされています。
これは持統天皇の御代において草薙の神剣がなかったことを意味し、形代として制刀した宝剣をあたかも神剣であるかの如く奉斎するために、この八剣宮なる社殿が造営されたと解釈できます。
元正天皇の御代には熱田社に剣が戻されていた?
日本書紀によれば720年の元正天皇の御代には、熱田社にオリジナルの草薙の神剣があるとする所在を伝えていることから、720年には本物の草薙の神剣が戻されていたことになりまする。
このあたりの経緯が複雑なのでまとめると次のようになります。
668年(天智天皇7年)1月3日、天智天皇が即位
668年の年内に草薙の神剣が盗難に遭う。
673年(天武天皇2年)2月27日、天武天皇が即位
686年(朱鳥元年)6月10日、天武天皇が草薙の神剣を熱田社へ送る。
690年(持統天皇4年)1月1日、持統天皇が即位
(以降、文武天皇と→元明天皇が即位)
708年(和銅元年)9月、八剣宮が創建される。
720年、日本書記の景行天皇51年8月4日条によれば熱田社に剣が奉斎されている事実が記載されている。
これらの事実関係には不明瞭な部分が多く、草薙の神剣の形代がいつどこでどのような経緯で製刀されたのかは一切、不明とされています。
‥‥となれば現在、本物とされる草薙の神剣の存在すら、果たして本物と言える代物かどうなの真偽について改めて問われることにつながります。
これは日本書紀が剣の所在を逐次、明確に記していないのと、熱田社(現・熱田神宮)側に伝承される資料との内容の不一致が事実関係をややこしくし、不明瞭にならざるを得ない状況をつくりだしているからです。
熱田神宮・別宮八剣宮の「建築様式(造り)」
熱田神宮・別宮八剣宮は、伊勢神宮や熱田神宮本宮と同じ「神明造(しんめいづくり)」の建築様式です。
年間の祭礼が本宮(本殿)と同形式で執り行われることからも理解できるように、本宮に次いで重要な社という位置付けもあり、本宮とほぼ同型の形状で造営されています。
以下のような特徴があります。
高床式の造り
神明造は古代の「高床式倉庫」を発展させたものとされています。
昇殿するには階段を昇る必要があります。
屋根の造り
切妻造り
屋根は本を真ん中で2つに分けて、箱に覆い被せたような「切妻造りの屋根」となっています。
平入り
また、屋根の垂れ下がる方向に入口がある「平入り」の造りです。
銅葺き
神明造りの建物の屋根は、通常は「茅葺(かやぶき)」ですが、熱田神宮では「銅葺(どうぶき/材質:銅)」が基本となっています。
熱田神宮が「銅葺き」である理由とは、神宮のように「遷宮(せんぐう)=新築にする」が無いに等しいからです。つまり、屋根に耐久度を持たせる必要があることから、銅葺。
他に神宮と社殿の造りを全く同じにするのは、あまりにも恐れ多いという見解があるものと思われます。
「千木(ちぎ)」「鰹木(かつおぎ)」
熱田神宮の社殿にも、神社建築の特徴である「千木(ちぎ)」「鰹木(かつおぎ)」が屋根の上に据え付けられてい‥‥‥申す。ヒャダイン! ….なぜDQ?
千木は「屋根の上部左右にある角のようなもの」とされ、鰹木は「屋根の上に乗っている小さなパーツ」です。
なお、鰹木は「鰹節(かつおぶし)」に形が似ていることから由来がきていると云われ申す。
柱の造り
土台となるものを敷かず、地面に直接建てた「掘立柱」です。
神明造りでは「掘立柱」が基本の造りとなります。
熱田神宮・別宮八剣宮の場所(地図)
別宮八剣宮は、熱田神宮正門の西側にあります。