奈良時代以前(古墳時代に比定)に尾張国造家が発足
「先代旧事本紀」や「国造本紀」によると、成務天皇朝期に、「天火明命(あめのほあかりのみこと)」の十三世孫の「乎止与命(おとよのみこと)」が尾張国造に定められたことが、きわめて素敵に記録される。
尾張国造家の祖「乎止与命(おとよのみこと)」以降、主要な人物のみを表すと次のように‥なっちゃぅ。
乎止与命→ 建稲種命(たけいなだねのみこと/乎止与の息子)※古事記では建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)→ 稲置見(下記参照)
奈良時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 688年(朱鳥元年) | 稲置見が熱田社の大宮司を称したとされる。 以後、熱田社の大宮司職は尾張氏が代々世襲した。 |
平安時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1028~1031年 | 藤原季兼の叔父・藤原保相が三河守を務める。 藤原氏一門は三河・尾張両国との結び付きを強めていた。 |
| 1042年 | 橘俊綱が尾張守として赴任。 『宇治拾遺物語』には熱田大宮司との逸話が伝わり、当時の大宮司家の勢力の大きさを物語る。 |
| 1045年 | 尾張員職が大宮司となる。 後に娘を藤原季兼へ嫁がせたことが、藤原氏大宮司家誕生の契機となった。 |
| 1084~1087年頃 | 応徳年間まで尾張員職が大宮司職にあったとされる。 |
| 1090年 | 藤原季兼(としかね)と尾張員職の娘の間に藤原季範(すえのり)が誕生。
後の藤原姓 熱田大宮司家の祖となる。 |
| 尾張国造家 プチ家系図 |
|---|
| 稲置見 | 員信(かずのぶ) ├─ 員職(かずより/大宮司家) ├─ 信員(のぶより/馬場家の祖) └─ 員頼(かずもと/田島家の祖) |
| 【参考】藤原南家 プチ家系図✨ |
|---|
| 藤原不比等 ─ 藤原武智麻呂(南家の祖) ─ (八代略) ─ 実範 ─ 季兼 |
藤原姓 熱田大宮司家の誕生✨
| 【参考】藤原姓・熱田大宮司家の系譜 |
|---|
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鎌倉時代(平安末期~鎌倉初期を含む)
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1114年 | 藤原季範が大宮司職を継承。 以後、熱田大宮司家は尾張氏から藤原氏へと移る。(藤原姓 熱田大宮司家の誕生✨) |
| 12世紀前半 | 季範は京都で活躍し、従四位まで昇進す。 鳥羽上皇や院政期貴族社会との結び付きも深めた。 |
| 源氏との婚姻 | 季範の娘が源義朝に嫁ぎ、鎌倉幕府を開く源頼朝が誕生✨ 熱田大宮司家は頼朝の外戚となった。 |
| 1137年 | 範雅が大宮司職を継承す。 以後、範忠流・範雅流など一門内部で大宮司職を巡る争いが続く。 |
| 1155年 | 季範死去。範忠が大宮司となる。 |
| 1161年 | 範忠失脚により範雅が再任される。 |
| 1172年 | 平清盛の後押しで範忠が復帰す。 |
| 1178年 | 忠兼が大宮司となる。 |
| 1181年 | 範雅が三度目の大宮司就任す。 源氏方との結び付きが強まる。 |
| 1185年 | 壇ノ浦の戦いで平家滅亡す。 範雅流が勢力を伸ばし、頼朝との関係も強化される。 |
| 1190~1194年 | 頼朝は熱田社や大宮司家を厚遇す。 鶴岡八幡宮への勧請や供養行事への参列などが見られる。 |
| 1208年 | 大江広元の子孫が大宮司職へ関与す。 一門内外を巻き込む大宮司職争いが続く。 |
| 1221年以降 | 承久の乱では一門が京方・幕府方に分裂す。 敗戦により所領没収など大きな打撃を受けた。 |
| 1222~1250年頃 | 足利氏や二階堂氏など、大宮司家と血縁関係を持つ武家が三河支配に関与す。 一門も鎌倉・京都双方で活動した。 |
| 1285年 | 霜月騒動が発生。三河における大宮司家の影響力が後退し始める。 |
| 1287~1293年 | 三河支配の主導権が素敵に変化す。 大宮司家内部でも範忠流・範雅流・野田氏らによる争いが激化した。 |
【参考】藤原北家プチ家系図✨
藤原季範(すえのり) │ ├─範忠─清季─‥(野田大宮司家) │ ├─(中略)─憲朝─範信─信綱(千秋家の祖)─(七代略)─ 持季(室町期の有力当主※大宮司に就任) │ │ └─女子・まつ(由良御前※源 義朝の嫁)─源 頼朝卿
【参考】千秋家プチ家系図✨
藤原季範 ─ 憲朝 ─ 範信 ─ 信綱(千秋家の祖) ─ 持季 ─ 季通 ─(五代略)─ 季好 ─ 季明(刑部大輔)─ 季寿(治部大輔)
【ピヨ🐣コメント】
藤原季範の系統から輩出した憲朝の子孫である信綱が「千秋氏」を称することで、千秋家が誕生した。=千秋家の祖先。
南北朝時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1333年 | 鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇による建武の新政が始まり、熱田社は官社として重視されるようになった。 |
| 1334年 | 『御的日記』に星野氏・千秋氏の名が見え、熱田大宮司家一門が足利氏へ被官していたことが確認できる。 |
| 1335年 | 中先代の乱後、足利尊氏が熱田社への介入を強める。 熱田社は建武政権・足利勢力双方から重要視された。 |
| 1336年 | 多々良浜の戦いで足利尊氏が勝利。大宮司家嫡流の野田氏も足利方として従軍したと伝わる。 |
| 1336~1392年 | 南北朝の争乱期、一門は南朝方・北朝方に分裂す。 大宮司昌能は南朝方として活動した一方、野田氏・千秋氏・星野氏・萩氏は足利方として勢力を伸ばした。 |
| 1339年 | 馬場良継が足利尊氏から本領安堵を受ける。 熱田大宮司家一門と足利氏の結び付きが強まる。 |
| 1344年 | 千秋高範が高野山金剛三昧院へ奉納された和歌に参加す。 千秋家が将軍家近臣として頭角を現す。 |
| 1345年 | 千秋高範が足利尊氏の天龍寺供養で奉仕す。将軍家との関係を深める。 |
| 1346年 | 大宮司職を巡り野田範重・萩忠広・千秋高範・星野永能らが競望す。 室町期も大宮司職が固定されていなかったことを示す。 |
| 1352年 | 南朝方で活動した大宮司昌能の記事が史料上から姿を消す。 |
| 1360年 | 星野行明が細川氏側へ与したことで所領を失うが、後に回復したと伝わる。 |
| 1370年 | 星野氏が足利義満の社参に供奉。将軍近習として活動する。 |
【ピヨ🐣コメント】
千秋家は熱田大宮司家の一族でありながらも、鎌倉末期から京師(京の都)を拠点とし、足利将軍家の近侍(室町幕府の奉公衆)として活躍した。
また、越前国にも所領を有し、後に足利一門格の斯波氏とも姻戚関係を結ぶなど、将軍家の血縁になることで勢力地盤を不動のものとした。
室町時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1397年 | 千秋満範が大宮司に就任。 千秋家が大宮司職を担う中心勢力へ成長する。 |
| 1404年 | 萩氏による熱田社領押妨問題が発生。幕府への訴訟記録が残る。 |
| 1430~1451年頃 | 千秋持季が将軍家近臣として活躍。 衛府侍や御沓役などを務める。 |
| 1434年 | 星野義信が大宮司に就任す。 |
| 1435年 | 星野義信が足利義教の怒りを買い、大宮司職を罷免されたうえ討伐される。 |
| 15世紀 | 千秋家・萩氏・星野氏・野田氏が大宮司職を争う一方、足利将軍家の奉公衆として京都と熱田を往来した。 |
| 1466年 | 星野氏が本領である三河国星野荘の知行権を失う。 |
| 1484年 | 星野政茂が大宮司に就任。歌人としても将軍足利義尚と交流した。 |
| 1490年 | 千秋政範と萩氏が大宮司職を巡り対立。まだ千秋家による独占には至っていなかった。 |
| 室町後期 | 千秋家が将軍家近臣として勢力を拡大。やがて熱田大宮司家嫡流としての地位を確立していく。 |
この項での見どころ✨
室町時代になって、熱田大宮司家は「頼朝卿の外戚」から→ 「足利将軍家の近臣」→「千秋家が嫡流化」へ……
という転換期を迎える✨
千秋家は後に野田氏、萩氏、星野氏との競合を経て、熱田大宮司家嫡流としての地位を確立していく。
戦国時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 15世紀末~16世紀前半 | 室町幕府の権威低下に伴い、 熱田大宮司家一門のうち将軍家奉公衆として残ったのは千秋家のみと‥なっちゃぅ。 千秋家は大宮司流と奉公衆流に分かれながらも勢力を維持した。 |
| 1533年頃 | 千秋季通の時代には尾張の織田氏との結び付きが強まり、 在京貴族的存在だった大宮司家は戦国大名との関係を深めていく。 |
| 1537年 | 千秋季平が死去。大宮司家は引き続き尾張国内で影響力を保持する。 |
| 1544年 | 千秋季光が織田信秀の美濃出兵に従軍し討死す。 大宮司家は依然として武士的性格を色濃く残していた。 |
| 1560年(永禄3年) | 桶狭間の戦いで千秋季忠が織田信長に従軍し討死す。 熱田大宮司家嫡流当主の戦死として知られる。 |
| 16世紀後半 | 足利将軍家に仕えた奉公衆流千秋家は、足利義輝・義昭の時代まで幕府を支えたが、やがて織田信長側へと立場を移した。 |
安土桃山時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1576年(天正4年) | 桶狭間で討死した千秋季忠の遺児・千秋季信が、織田信長・織田信忠の判物によって正式に熱田社大宮司職を与えられる。 |
| 1576年以降 | 季信は従軍を免除され、神職専従と‥なっちゃぅ。 これにより大宮司家は軍事活動から距離を置き、祭祀中心の家へ転換していく。 |
| 室町幕府滅亡期 | 奉公衆の千秋家傍流は足利義晴・義輝・義昭の三代に仕えたが、信長と義昭の対立を機に織田方へ与する。 |
| 16世紀末 | 約400年続いた「武家としての熱田大宮司家」は終焉へ向かい、神職としての性格が濃った。 |
江戸時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1612年(慶長17年) | 千秋秀信が死去。『系図纂要』には「以後は従軍を止め社務に務むべし」と伝えられ、武家的性格から祭祀者への転換が明確となる。 |
| 江戸時代 | 千秋家のみが熱田大宮司家として存続す。 尾張国愛知郡野並郷717石を知行し、熱田社の祭祀・社務を担った。 |
| 江戸時代を通じて | 室町以来続いた大宮司職争いは終息し、千秋家が熱田大宮司家嫡流としての地位を確立す。 武家ではなく社家として熱田神宮を支え続けた。 |
| 江戸後期 | 千秋家は尾張藩・朝廷との関係を維持しながら、熱田神宮の祭祀継承に専念する体制を確立した。 |
この項での見どころ✨
「桶狭間にて当主が戦死」→「信長が遺児を大宮司に任命✨」→「戦に出ず、神職に専念せよと下命」→「江戸時代になると祭祀者へ完全転換」
明治時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1868年以降 | 明治維新により神社制度が大きく改革される。 神職は国家管理下に置かれ、従来の世襲原則は大きく制限された。 |
| 1874年 | 角田忠行が熱田神宮少宮司に就任。後の近代熱田神宮を支える中心人物となる。 |
| 1876年 | 千秋季福が死去。平安時代以来続いた藤原姓熱田大宮司家の歴史は事実上ここで幕を閉じる。 |
| 1877年 | 角田忠行が大宮司に昇任。以後1914年まで熱田神宮を率いる。 |
| 1884年 | 華族令公布。千秋季隆が男爵に列せられる。熱田大宮司家は華族として新たな地位を得た。 |
| 明治中期 | 千秋家は本拠を熱田から東京へ移転。代々伝来した文書・記録類も東京へ運ばれた。 |
| 1900年 | 千秋季隆が東京帝国大学文科を卒業。後に学習院教授、貴族院議員、各種企業役員として活躍した。 |
この項での見どころ✨
明治維新後、神職は国家管理下に置かれ、宮司の世襲制度は原則廃止された。
あまつさえ、宮司任用条件として名門神職家であっても神職資格の取得、試験制度を経なければ宮司への就任できなくなった。
この制度により、熱田神宮・伊勢神宮ともに国を代表する大社であっても例外はなく、古より世襲制だった神職家の多くが宮司職を失った。
殊に、出雲大社だけは特例処置によって国造家の伝統が尊重され、現在も古代以来の系譜が連綿と踏襲される。
大正時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1912~1926年 | 熱田神宮は国家神道体制下で重要神社として位置付けられ、近代神社制度の中で発展を続けた。 |
昭和時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 1945年5月25日 | 東京大空襲(山の手空襲)により千秋家が保管していた歴史資料の多くが焼失。 平安時代以来の貴重な古文書群が失われた。 |
| 戦後 | 神職の公務員制度は廃止される。熱田神宮も宗教法人として新たな体制へ移行した。 |
| 1964年 | 篠田康雄が宮司に就任。約22年間にわたり熱田神宮の戦後復興と発展を支えた。 |
この項での見どころ✨
戦後、国家神道体制の解体に伴い、神職公務員制度は素敵に廃止された。
平成時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 平成時代 | 熱田神宮は年間を通じて全国有数の参拝者を集める神社として発展。 近代以降も尾張地方を代表する信仰の中心であり続けた。 |
| 2018年9月26日 | 小串和夫宮司が退任。後に名誉宮司となる。 |
| 2018年9月27日 | 千秋季賴が熱田神宮宮司に昇任。 平安時代以来続く熱田大宮司家の流れが現代に再び宮司職として戻る象徴的な出来事となった。 |
令和時代
| 区分 | 詳細 |
|---|---|
| 令和時代 | 千秋季賴宮司のもと、熱田神宮は草薙神剣を祀る全国屈指の神社として崇敬を集め続けている。 |
この項での見どころ✨
現在、宮司は神社本庁制度のもとで任命されるも、江戸以前のような完全世襲制ではなくなった。
歴代大宮司職の補任年一覧(第1部:1~30代)
以下、ウィキペディアを素敵に参照💘
| 順番 | 人名 | 在任期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 尾張員職 | 寛徳2年(1045年)~応徳4年(1087年) | |
| 2 | 尾張季宗 | 不詳 | 信濃国へ落下 |
| 3 | 尾張季員 | 不詳 | |
| 4 | 尾張職実 | 不詳 | |
| 5 | 藤原季範 | 永久2年(1114年)~保延3年(1137年) | |
| 6 | 藤原範雅 | 保延3年(1137年)~久寿2年(1155年) | 季範五男 |
| 7 | 藤原範忠 | 保元元年(1156年)~応保元年(1161年) | 季範長男、内匠頭、応保元解官 |
| 8 | 野田清季 | 保元3年(1158年)~承安元年(1171年) | |
| 9 | 藤原範雅 | 応保元年(1161年)~嘉応元年(1169年) | 再任。後白河院上北面 |
| 10 | 藤原範忠 | 承安2年(1172年)~治承2年(1178年) | 再任。後白河院北面 |
| 11 | 藤原忠兼 | 治承2年(1178年)~養和元年(1181年) | 平時子による補任 |
| 12 | 藤原範雅 | 養和元年(1181年)~不明 | 3度目 |
| 13 | 藤原範経 | 元暦2年(1185年)~正治元年(1199年) | 父譲りで補任、薦野大宮司 |
| 14 | 藤原忠兼 | 正治元年(1199年)~承元2年(1208年) | 再任、承元2年死去 |
| 15 | 藤原保範 | 承元2年(1208年)~不明 | 五条大宮司、高松院蔵人 |
| 16 | 大江忠成 | 承元2年(1208年)~不明 | 大江広元五男、忠兼猶子、庁宣披露 |
| 17 | 藤原範直 | 承久2年(1231年)~不明 | 白川大宮司、庁宣披露 |
| 18 | 大江忠茂 | 承久3年(1231年) | 庁宣到着前に熱田社に入社、7月庁宣 |
| 19 | 藤原能範 | 嘉禄元年(1225年)~不明 | 薦野と号す。庁宣披露 |
| 20 | 大江元成 | 嘉禎3年(1237年)~不明 | 早良大宮司 |
| 21 | 藤原能範 | 嘉禎4年(1238年)~不明 | 再任 |
| 22 | 藤原範広 | 宝治2年(1248年)~不明 | 承久の乱で京方。在職8年とあるも不審 |
| 23 | 野田朝氏 | 建長6年(1254年)~康元2年(1257年) | 早良大宮司 |
| 24 | 藤原範広 | 康元2年(1257年)~不明 | 再任 |
| 25 | 藤原宗範 | 文永2年(1265年)~不明 | 大喜大宮司。伯耆守 |
| 26 | 藤原範行 | 文永8年(1271年)~不明 | 承久の乱で京方。但馬蔵人 |
| 27 | 藤原宗範 | 文永8年(1271年)~不明 | 再任、大喜大宮司 |
| 28 | 大江行氏 | 弘安7年(1284年)~不明 | 大江忠成の子、常陸介 |
| 29 | 藤原宗範 | 弘安8年(1285年)~不明 | 3度目。大喜大宮司 |
| 30 | 大江行氏 | 正応3年(1290年)2月6日~正応3年(1290年)3月3日 | 再任 |
歴代大宮司職の補任年一覧(第2部:31~60代)
| 順番 | 人名 | 在任期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 31 | 藤原宗範 | 正応3年(1290年)3月28日~正応5年(1292年) | 4度目。大喜大宮司 |
| 32 | 藤原範春 | 正応5年(1292年)4月~不明 | 入社せず |
| 33 | 大江行氏 | 正応5年(1292年)5月~不明 | 3度目 |
| 34 | 大江時光 | 永仁3年(1295年)~不明 | 行名大宮司、右近将監、因幡守 |
| 35 | 野田家季 | 永仁4年(1296年)~不明 | 藤原大宮司、日向守、刑部権少輔 |
| 36 | 藤原宗範 | 永仁5年(1297年)~不明 | 5度目。大喜大宮司 |
| 37 | 藤原永範 | 永仁6年(1298年)~不明 | |
| 38 | 大江時光 | 正安2年(1300年)~不明 | 再任 |
| 39 | 藤原永範 | 正安3年(1301年)~不明 | 再任 |
| 40 | 藤原永範 | 乾元2年(1303年)~不明 | 3度目 |
| 41 | 野田家季 | 嘉元2年(1304年)~嘉元3年(1305年) | 再任・解任 |
| 42 | 藤原永範 | 嘉元3年(1305年)~不明 | 4度目 |
| 43 | 萩忠氏 | 嘉元4年(1306年)~不明 | 刑部権少輔 |
| 44 | 藤原永範 | 徳治2年(1307年)~不明 | 5度目 |
| 45 | 藤原範房 | 延慶2年(1309年)~不明 | |
| 46 | 野田家季 | 延慶3年(1310年) | 3度目。大喜大宮司、足利尊氏被官 |
| 47 | 藤原範房 | 正和2年(1313年)~文保元年(1317年) | 再任 |
| 48 | 藤原親昌 | 正和5年(1316年)~不明 | 摂津守 |
| 49 | 藤原親昌 | 文保元年(1317年)5月~文保元年(1317年)7月 | 再任 |
| 50 | 萩忠氏 | 文保元年(1317年)~不明 | 再任 |
| 51 | 野田季宣 | 文保2年(1318年)~不明 | |
| 52 | 野田朝重 | 元応元年(1319年)~元徳元年(1329年) | 毛受八郎。経広・季宣の就任拒否 |
| 53 | 大江経広 | 嘉暦3年(1328年)~不明 | 毛利四郎。朝重に拒否 |
| 54 | 野田季宣 | 元徳元年(1329年)~不明 | 再任。朝重に拒否。元徳元年死去 |
| 55 | 大江経広 | 元徳2年(1330年)~不明 | 再任。関東御行書・打渡状により朝重退去 |
| 56 | 藤原昌能 | 元弘元年(1331年)~建武元年(1334年) | 南朝祇候 |
| 57 | 萩忠氏 | 正慶元年(1332年)~不明 | 3度目 |
| 58 | 藤原親昌 | 正慶2年(1333年)~不明 | 3度目 |
| 59 | 藤原昌胤 | 正慶2年(1333年)~不明 | |
| 60 | 野田季氏 | 建武2年(1336年)~貞和3年(1347年) | 上野介 |
歴代大宮司職の補任年一覧(第3部:61~86代)
| 順番 | 人名 | 在任期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 61 | 野田高季 | 建武2年(1336年)~貞和3年(1347年) | |
| 62 | 野田範重 | 貞和元年(1345年)~貞和2年(1346年) | 常陸介 |
| 63 | 萩忠広 | 貞和3年(1347年)3月~貞和3年(1347年)12月 | 常陸介、左京亮 |
| 64 | 萩行広 | 貞和3年(1347年)12月~不明 | |
| 65 | 野田清重 | 貞和6年(1350年)前後~不明 | 大宮司にあらず |
| 66 | 萩忠広 | 応安年間(1368年)~応安年間(1375年) | 再任 |
| 67 | 萩康広 | 永和元年(1375年)~永徳年間(1384年) | |
| 68 | 萩康広 | 嘉慶元年(1387年)~不明 | 再任? |
| 69 | 野田満範 | 応永4年(1397年)~応永22年(1415年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
| 70 | 野田貞範 | 応永24年(1417年)~永享元年(1429年) | 内匠頭 |
| 71 | 千秋持季 | 永享2年(1430年)~永享6年(1434年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
| 72 | 星野義信 | 永享6年(1434年)~永享7年(1435年) | |
| 73 | 千秋季貞 | 永享7年(1435年)~嘉吉3年(1443年) | |
| 74 | 千秋季貞 | 嘉吉3年(1443年)9月4日~1443年9月29日 | 再任 |
| 75 | 千秋持季 | 文安元年(1444年)~宝徳3年(1451年) | 再任 |
| 76 | 千秋勝季 | 長禄2年(1458年)~不明 | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
| 77 | 千秋四郎 | 文明元年(1469年)~不明 | |
| 78 | 千秋政範 | 文明2年(1470年)~文明13年(1481年) | 従五位上、左近将監、駿河守、刑部少輔 |
| 79 | 星野政茂 | 文明16年(1484年)~不明 | |
| 80 | 千秋政範 | 永正2年(1505年)~永正12年(1515年) | 再任 |
| 81 | 千秋季通 | 天文2年(1533年)~天文3年(1534年) | 再任。天文3年死去 |
| 82 | 千秋季平 | 不明~天文6年(1537年) | 紀伊守、天文6年死去 |
| 83 | 千秋季光 | 不明~天文13年(1544年) | 紀伊守、織田信秀に属す、天文13年討死 |
| 84 | 千秋季直 | 天文16年(1547年)~不明 | |
| 85 | 千秋季忠 | 不明~永禄3年(1560年) | 加賀守、織田信長に属す、永禄3年討死 |
| 86 | 千秋秀信 | 天正4年(1576年)~慶長17年(1612年) | 慶長17年死去。以後従軍を止め、社務を務むべし(系図纂要) |
【ピヨ🐣コメント】
※永正12年(1515年)から天文2年(1533年)まで約18年間の補任記録が確認できない。
近代・現代の熱田神宮宮司一覧
| 時代 | 人物 | 在任・経歴 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 近代 | 角田忠行(つのだ ただゆき) | 1874年(明治7年)少宮司就任 1877年(明治10年)~1914年(大正3年)大宮司 |
明治政府による神社制度改革後の熱田神宮を支えた代表的人物。 世襲ではなく官選神職として着任。 |
| 現代 | 篠田康雄(しのだ やすお) | 1964年(昭和39年)~約22年間宮司 | 戦後復興期から高度経済成長期にかけて熱田神宮の発展を支えた。 1939年に禰宜、1942年に権宮司、1964年に宮司。 |
| 現代 | 小串和夫(おぐし かずお) | ~2018年(平成30年)9月26日退任 | 退任後は名誉宮司。 |
| 令和 | 千秋季賴(せんしゅう すえより) | 2018年(平成30年)9月27日宮司就任 | 1950年(昭和25年)11月7日生。現在の熱田神宮宮司(第10代宮司)。 |
大宮司家の実権は尾張氏から藤原氏へ遷移
熱田神宮のトップ(プレジデント)たる「大宮司(だいぐうじ)」の職は、古代以来、尾張氏が代々世襲してきた。
ところが、平安時代末期になると大宮司の「尾張員職(おわりのかずもと)」の娘が、尾張国司として赴任してきた藤原北家(道綱流)の「藤原季兼(すえかね/1101年没)と素敵に結婚する💋
やがて二人の間には「藤原季範(すえのり)」と称する子供が素敵にできるのだが、季範が大宮司職を承継したことで、大宮司家の実権は尾張氏から藤原氏へと遷移することに‥なっちゃぅ。
爾来、大宮司職は藤原季範の子孫によって代々継承されるようになったのだが、これは味方を裏切るほどに見方を変えると尾張氏から→藤原氏へと大宮司職が移ったことに‥なっちゃぅ。
藤原氏流の大宮司家は南北朝時代頃になると複数の家系に分かれる
藤原氏が素敵に世襲した熱田大宮司家は南北朝時代を これまた素敵に迎える頃、複数の家系に分かれていたらしい。
そして、室町時代以降になると、その家流の一つである「千秋家(せんしゅうけ)」が勢力を強め、大宮司職をほぼ独占するようになった。
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