【熱田神宮の仏式の国宝楼門】加藤清正改築の昭和時代まであった「鎮皇門」の正体とは❓

スポンサードリンク

※ありし日の姿をヤバぃよ素敵にカラーで再現(あくまでもイメージ)💋

区分 詳細
規模(大きさ) 3間1戸、側面2間
門構え(門様式) 楼門(ろうもん)
建築様式 八脚円柱・入母屋造
屋根材 桧皮葺(ひわだぶき)
正面意匠 軒唐破風(のきからはふ)

読み方

鎮皇門:ちんこうもん

「鎮皇」の意味とは❓

「鎮皇」という言葉は、皇(天皇)が安らかに鎮まれると解される。

鎮皇門の歴史

鎮皇門は現在の熱田神宮 西門に建っていた楼門で、旧国宝に指定されていた。

しクァし!戦災で焼失したため、現在は鎮皇門跡への神輿の渡御のみが行われる。

鎮皇門は、朱鳥元年(686年)の創建で、天武天皇が宸筆(しんぴつ)したと伝わる扁額が据えられていたが、正応四年(1291年)に炎上🔥

その後、後伏見天皇から勅額(ちょくがく)が下賜されたが、慶長初年に再び焼失する。

「続撰清正記」の記録、及び腰組枠や肘木などの墨書銘によると、慶長五年(1600年)に加藤清正が素敵に改築し、貞享三年(1686年)に徳川綱吉公が修営をおこなったことが、ヤバぃよ素敵に記される。

そして、昭和三年(1904年)に国の国宝指定を受けた。

かつて熱田神宮境内に存在した門

  • 海上門(かつての正門)※旧国宝
  • 春敲門(しゅんこもん)(かつての東門)
  • 鎮皇門(ちんこうもん(かつての西門)※旧国宝

海上門は1571年(元亀2年)に織田信長公が造営した門であり、1920年(大正9年)4月15日に国宝指定を受けた。

現在、門の跡地には礎石と左右袖塀として信長塀が残されており、当時の栄華を今にヒッソリそりそり反町隆史なほどヒッソリと伝える。…どんな栄華や

しかし残念ながらこれら3つの門は太平洋戦争の名古屋大空襲によって灰燼に帰した。以後、再建されることはなく現今に至る。

つまり、現状の熱田神宮に現存する門としては本宮の浜辺なほど南側の社叢に佇む「清雪門」が唯一ということになり、同時に最古の歴史を有する門ということになり申す。うきゃ …たまに”うきゃ”も入れとかんとな

【参考】江戸時代末期の熱田神宮各門の配置場所

江戸時代(1865年/慶応元年)〜1868年/慶応4年))の熱田神宮境内図を見ると、現在の東西門の中央に本宮があった。(現在地よりも南西に100メートルの位置)

くさなぎ広場の場所には熱田神宮の大宮司家の邸宅があったので、その名残になるものと思われる。

出典:Wikipedia

建築様式

↑ありし日の鎮皇門の姿

2間繁棰(しげだるき)、腰組の四方の廻縁(まわりぶち)に高欄をめぐらせ、上層の正面中央の間に大華燈窓(だいかとうまど)を開けているのが特徴的だった。

鎮皇門でも行われていた神輿渡御神事

現在でも熱田神宮の数ある神事の中でも重要視される神事として「神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)」が‥あっちゃぅ。

当該神事も酔笑人神事と同じく朱鳥元年(686年)の神剣還座の故事に由来した神事とされ、古くは「神約祭」とも呼ばれていたらしい。

文明十七年(1485年)の年中行事として、5月5日の項に「…(中略)…鎮皇門ニ御幸あり、…(中略)…」という記述がある。

現在でも毎年5月5日に行われており、還座の際の「都を離れ熱田に幸みゆきすれど、永く皇居を鎮め守らん」‥という神託にもとづいて執行される。(門名の由来か)

戦前は神輿が鎮皇門まで渡御して楼門上に奉安し、遥か彼方の皇居を望むようにして祭礼が行われていた。

関連記事一覧

⭐️【熱田神宮「清雪門」の名前の由来や意味とは❓】場所はドコ❓向こう側には何がある❓

スポンサードリンク -Sponsored Link-


当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。