熱田神宮・南新宮社

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熱田神宮・南新宮社

創建年

  • 不明
  • 推定:1000年頃/平安時代中期
再建年

  • 1686年(貞享3年)
  • 1922年(平成4年)※屋根葺き替え、丹塗り替え
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 平入
  • 社殿丹塗り(朱塗り)
屋根の造り

  • 茅葺き
社地面積
  • 275坪(約909平方メートル)
御祭神

  • 素戔嗚尊
社格

  • 熱田神宮・摂社
祭事

  • 6月5日(南宮社祭)

熱田神宮南新宮社の読み方

南新宮社は「みなみしんぐうしゃ」と読みます。

南新宮社の名前の由来

熱田神宮本宮は1893年(明治26年)に北西へ100メートルほどの場所へ移築されているが、移築前の本宮から見た南新宮社はより真南に近い方角にあったとされる。

それゆえ、「南」がふされて南の新宮となったとされる。




熱田神宮・南新宮社の御祭神「素戔嗚尊」

熱田神宮・南新宮社の御祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」です。

素戔嗚尊は、「建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)」とも言い、日本中に数多く点在する神社でも祭神としてお祀りされていることが多い神様です。

ちなみに、素戔嗚尊の「スサ」とは、「荒れスサぶ」との意味合いがあります。

つまり、台風(暴風)などを司る神様とも言われており、他に疫病退散の神様とも呼ばれています。

素戔嗚尊は、京都・八坂神社の主祭神として祀られていることで有名です。

八坂神社で例年、夏に開催される「京都・祇園祭」は、須佐之男命(牛頭天王)を神輿に乗せて巡幸させ、洛中の疫病退散や邪気消滅・無病息災を願って行われます。

熱田神宮・南新宮社の歴史

一条天皇の御代(1000年頃/平安時代中期)、熱田では疫病が流行し多数の死者が出た。

そこで疫神を盛大に祀って祈りを捧げた。すると、スッキリきりきり高坂桐乃の如く、スッキリと疫病がおさまったことから、以来、毎年同じ日にお祭りを開催するようになった。どゆ意味や

これが今日に見られる「南新宮社」と南新宮社の例祭「南新宮社祭」の草創奇譚である。

1469年から1486年(文明年間/室町時代)には、20メートルを超える「山車」が数台出て、周囲の町中でも曳かれ、迫力のある光景が見られたとされる。

⬆️噂の往時の南新宮社の山車

山車は熱田社(熱田神宮の旧名)周辺の各町内から曳き回されて、まずはこの南新宮社へ向けて渡御した。

南新宮社の社殿前に到着すると、4拍子(笛、大鼓、小鼓、太鼓)を用いて謡を興じ、南新宮社から現在の東門へ向かい東門奥にかつて存在した「下馬橋」の手前で取り壊される‥‥‥といった半ば演目的な要素も加わった風変わりな催しだったようである。

しかしながら、一説によれば本能寺の変にて熱田社(熱田神宮)最大のパトロンであった織田信長が討たれたのが、ちょうど天王祭の最中だったようで、今まさに下馬橋を渡ろうとした直前に一報がもたらされて中止になったとのこと。

これが山車を下馬橋の手前で壊す理由にもなっているとうから面白ぃ。

安土桃山時代の南新宮社

旧記の記録によれば、1598年7月22日(慶長3年6月19日)に太閤秀吉を発願者とした造営記録が残る。




江戸時代の南新宮社

1686年(貞享3年/江戸時代前期)に江戸幕府、1700年(元禄13年)には尾張藩の主導により、熱田社(熱田神宮)では100あまりの社殿や堂宇の大規模造営・再建が実施されたことが記録に見える。

1686年(貞享3年)には屋根の葺き替えと並行して社殿の色が塗り替えられている。

明治時代に山車の渡御は廃絶

明治時代以降になると、文明の近代化によって電線というものが出現する。これにより、背の高い山車は電線にブツかるという理由で出動する機会を失った。

現在では南新宮社の神事である「南新宮社祭」のみが毎年6月5日に執り行われるようになっている。

明治時代に熱田神宮境内の社殿が一新された

1893年(明治26年)には、熱田社にとっては歴史に刻まれるほどの大きな出来事が起こる。

それは、従来の尾張造りであった社殿の造りを神宮(伊勢神宮)と同様の神明造りへと改造したからである。

これは熱田社の社格が伊勢神宮に次ぐものとなったことを意味し、熱田社の歴史上、この上なき誉れとなった。

しかしながら、この南新宮社に関しては旧来の信仰の有り様が重く受け止められたのか、社殿は神明造りへと改造されるはことなく、今日まで従来の姿であり続けている。

昭和時代の南新宮社

熱田社にとってもう1つの大きな出来事と言えば、境内のほとんどを焼き尽くした、1945年(昭和20年)の太平洋戦争の名古屋空襲である。

この空襲では旧国宝指定の海上門や鎮皇門をはじめとした社殿群を焼失している。

平成時代の南新宮社

この南新宮社は現在、熱田神宮境内の社殿群の中でも従来の姿を留めた唯一の歴史的建造物といえる。

かつては山車が出されるなど、多大な信仰が寄せられてきたにも関わらず、文献上に残る記録はけっして多くはない。

直近では1922年(平成4年)に屋根の葺き替えと並行して社殿の色が塗り替えられている。

この南新宮社(本殿)は社殿の形状や朱漆塗りの社殿という熱田神宮の中では異質の存在感をはなっているが、それは現代まで脈々と受け継がれてきた、篤き信仰の賜物であるといわざるを得ない。

「熱田天王祭(熱田まつり)」と「南新宮社」

熱田神宮・南新宮社

元来、熱田神宮の6月5日と言えば、天皇の勅使が下向されて、境内社であるこの南新宮社で「天王祭」と称される祭典が催されていた。

天王祭は熱田近辺の町村で「笹提灯(ささじょうちん)」と呼ばれた提灯を1本の笹に20個ほど並べて飾り立てた情緒深ぃ祭典であったと伝えられている。

そして天王祭が終わりを迎えると、町や村から祭りで使用した笹提灯が、この南新宮社の前に集められたそうです。

集められた笹提灯がその後、どうなったかと言うと・・、驚くことになんと!熱田神宮の神官やその一族が集い、笹提灯を解体して「団扇(うちわ)」を作ってお金に変えていたそうです。

そのお金で社殿の修繕や自分たちの着る装束や備品を買っていたとのこと。

我々の知りようがない暗黒の歴史ももっていたということであろぅか。

なお、この時に神官たちが、せっせとコシらえた団扇は、後に「熱田の宮団扇」と呼称され熱田神宮参拝の縁起物として一躍、有名になっている。

現在では資本主義の波の飲まれて、宮団扇を見かける機会がほとんどなくなった。

しかし、熱田神宮にまつわる場所や団扇に関連した老舗店などへ行けば、現代でも見かけることができる。




ところで・・「熱田の天王祭」って現代でもある??

上述で、熱田の天王祭に関してのことを述べましたが、実は天王祭と言うのは明治時代に廃止されています。

しかし、その後、熱田に住む方々の掛け声によって、新たに「熱田まつり(尚武祭)」として、同様に6月5日の例祭として復興されています。

熱田まつりの日程・時間

日程
  • 例年:6月5日
時間
  • 10:00~:勅使が下向され神事開始
  • 19:40~20:30頃:花火の打ち上げ開始
  • 17:30~20: 30:東西南の門の「まきわら献灯」【見どころ】

熱田神宮・南新宮社の建築様式(造り)

下掲、写真を見ると分かるが、この南新宮社は熱田神宮の境内にありながら、他の社殿群とは一線を画し、社殿に丹塗り(朱塗り)が施され、色あざやかな朱色の御社殿となっている。

特徴としては、「への字型」の切妻屋根が乗る平入の一間社流造(ながれづくり)で佇む。

前方に延びた屋根を支える主柱の上には舟肘木(ふなひじき)がわたされ、その両脇上部を連三斗(つれみつど)で固める。

妻側には虹梁(こうりょう)をわたし、その上に撥束(ばちつか)を置く。

江戸時代の南新宮社の様子

1665年(寛文5年)頃に編纂された「熱田大神宮社殿書上」によれば、江戸時代の南新宮社は35間(約63.6メートル)の忌垣を周囲に配し、8尺(約2メートル42センチ)の鳥居が立つ境内を有し、本殿前方に「釣殿」や「拝殿」を備えていたことが記されている。

1841年(天保12年)に編纂された「尾張名所図会」および、1865年から1868年の間に編纂された「熱田本宮及摂末社之図」によれば、境内の様子にほとんど変化がない旨の内容が記されている。

しかしながら、現在に至っては本殿のみが残るのみであり、往時の栄華の影すら偲ばせない。

南新宮社の場所(地図)

南新宮社は、国道一号線側にある熱田神宮の正門(南門)をクグり、右手方向の北側へと伸びる旧参道をしばらく歩くと、右側に見えてきます。

 

 

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