熱田神宮・上知我麻神社

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熱田神宮・上知我麻神社

創建年

  • 不明
  • 推定:927年延長5年/平安時代)以前
再建年

  • 1949年(昭和24年)
建築様式(造り)

  • 流造風入母屋造
  • 唐向拝付き
  • 平入

※総檜素木造り

屋根の造り

  • 銅板葺
御祭神

  • 乎止與命
  • 事代主社(右脇)
  • 大国主社(左脇
神事

  • 毎年1月5日(初えびす)
  • 毎月5日(月次祭)
社格

  • 熱田神宮・摂社

熱田神宮上知我麻神社の読み方

上知我麻神社は「かみちかまじんじゃ」と読みます。

上知我麻神社の別名

また、上知我麻神社には別名があり「源太夫社(げんだゆうしゃ)」と呼称されています。




上知我麻神社が「源太夫社」と呼ばれた理由

熱田神宮には、古来から伝承される謡曲に「源太夫」と言う「謡」があります。

この謡のテーマでもあり、謡の内容で読まれている「源太夫」と言うのが、まさに上知我麻神社のこと。

従来から熱田の地は美濃路などと東海道が合流する追分(おいわけ/分岐点)などがあり、平安後期から鎌倉初頭にかけて交通の要衝として、はたまた「宿場」として繁栄を極め、多くの人で賑わった。

江戸時代になると東海道の一部が海路であったことから、陸上だけではなく海上交通の要衝としても栄えた。

上記、謡曲の中に詠まれる「道中の交通安全を祈願して多くの方が参拝に訪れた社」というのが、まさに源太夫社のこと。

以上のように上知我麻神社は古来、地元民のみならず、旅人が盛んに参拝に訪れたことから、熱田神宮の中でも本宮や別宮(八剣宮)に次ぐほどの重要視された社であった背景が想像につく。

ちなみに南の上知我麻神社と相対する形で、北の端に「下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)」がありますが、この神社は「紀太夫社」と呼ばれ、上知我麻神社とは関わりの深い社です。

熱田神宮・上知我麻神社のご利益

  • 学問向上
  • 商売繁盛
  • 家内安全

御祭神の乎止與命は「知恵の文殊様」という別名もあり、学問の神様としても有名です。

このことは1844年に編纂された「尾張名所図会」にも「市場町通傳馬町の西にある源太夫社、智恵の文殊という」などと記されていることから、江戸時代を通じて信仰が厚かったことが分かる。

なお、現在は両脇に大国主社と事代主社を奉斎した社が建つが、当時は大黒天と海神(わたつみのかみ)を奉斎していたことが、尾張名所図会の絵図に記されている。

毎年受験シーズンには、上知我麻神社に志望校合格を祈願して、大勢の人が参拝に訪れます。

左脇に大黒様である「大国主社(おおくにぬししゃ)」、右脇には恵比寿様である「事代主社(ことしろぬししゃ)」がお祀りされています。

大国主社や事代主はご存知の方も多い、商売繁盛の神です。それゆえ、毎年1月5日になると上知我麻神社にて、「初えびす」と祭事が執り行われまする。

初えびす」は深夜という時間帯にもかからず、毎年、大勢の商売人をはじめとした人々が、商売繁盛祈願や熊手を目当てに押し寄せまする。

上記、3つのご利益とは、まさにこれらの御祭神にちなんだものです。

熱田神宮・上知我麻神社の御祭神「乎止與命」

上知我麻神社には、商売繁盛や家内安全、そして知恵の文殊の神様である「乎止與命」が祭神として祀られています。

乎止與命の読み方は「おとよのみこと」と読みます。

「乎止與命」は尾張氏の祖先とされており、尾張国造(おわりこくぞう)でもあります。

また、尾張氏の血族である「建稲種命(たけいなだねのみこと)」は、日本武尊の懐刀として参謀を務めており、日本武尊とは非常に関わりの深い人物でもあります。

熱田神宮・上知我麻神社の歴史

熱田神宮・上知我麻神社の創建は不詳とされ、境内にある2つ子社(末社)も同様に創建年が不明とされています。

927年延長5年)に編纂された延喜式にもその名が見られることから、少なくとも927年(平安時代)以前には存在したものと考えることができます。

また、1693年(元禄6年)に天野信景によって編纂された「熱田本社末社神体尊命記集説 (そんめいき しゅうせつ)」の記述によれば、「この神は熱田の地主の神だから‥‥‥」」などと記されている。

ほかに1699年(元禄12年)に成立した「熱田宮旧記(あつたぐうきゅうき)」にも「この神は地主の神なる故に土地の人民所当を納め、海浜より大小の魚を貢進すべし‥‥‥」と、やはり「地主の神」の記述が見られることから、古くから当地の土地神として崇敬が寄せられていた背景が想像につきます。

創建当初は熱田区市場町にあった!

この上知我麻神社は、創建当初は熱田区の市場町に建てられていたようです。

市場町は1981年(昭和56年)9月20日に解体され、熱田区神宮1丁目、神宮2丁目、伝馬1丁目へそれぞれ編入され廃絶。

往時は「源太夫社(現在の上知我痲神社)の前で美濃路(現在の本町通)と東海道が合流したあたり(追分)にあった町です。

⬆️江戸時代の熱田神宮周辺図

毎年、年末には歳の市、正月の初市が立ったことから市場の名が付されてい‥‥‥申す。ギョハっ

⬆️往時の市場町のおおよその場所

桶狭間の戦いで戦勝をもたらした社でもある!

信長公記によれば桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)の折、鷲津砦(現在の鷲津砦公園)と佐久間盛重が守る丸根砦が陥落”間近”ということを”マジか”?!‥‥という気持ちになるほど悟らせた場所というのが、往時の上知我麻神社が建っていた場所とされてい‥‥申す。ギャホェっ

このとき、東方、海越しに煙が上がるのが見えたという事実からも分かるように、現在とは景観が打って変わり、海だったからでしょう。

昭和初期に現在地に移築された

しかし、昭和時代に入ると名古屋市の都市計画により、道路内に敷地が入ってしまったことから、昭和24年の12月25日に現在地となる「南参道出入口」の左脇に八剣宮などと並ぶ形で移築されることになります。

その後、1965年(昭和40年)12月25日に本殿が新造されており、正遷座祭が斎行されています。

上知我麻神社の「初えびす」

毎年1月5日は、商売繁盛や家内安全、漁業豊漁を願う「初えびす」というお祭りが行われています。

この日はえびすの一番札をとり、福熊手を得ようと午前0時であっても、多くの参拝客が境内に押し寄せます。

初えびすのお札には・・

  • 商売を営む方用の「あきないえびす」
  • 会社員用の「はたらきえびす」
  • 漁業従事者用の「とりえびす」
  • 職に就いていない方用に「ちからえびす」

の、4つのお札があります。

お札や熊手を授かることができたら、その年は良いことがありそうな気がします。

上知我麻神社・末社「大国主社」「事代主社」

上知我麻神社の境内には、大国主社と下記、「事代主社」と呼ばれる子社の位置付けとなる「末社(まっしゃ)」があります。

例年1月5日にはこの末社も含めた神事・「初えびす」が盛大に執り行われることで有名です。




上知我麻神社の神事・祭典

上知我麻神社の有名な神事として、赤ちゃんの名づけの際は神様から一文字頂く「名氏子(なうじこ)」という信仰が今でも有名です。

名氏子で名付けられた赤ちゃんが元気に成長したことを感謝する名氏子祭りという祭典が、毎年11月15日に行われています。

上知我麻神社でのイベント行事

太鼓教室

上知我麻神社の社務所では、太鼓教室を開催しています。

太鼓保存会会員」の先生に教わりながら、伝統の熱田太鼓を学びます。

練習は月に2回あり、他にも夏には合宿が催されます。

実力が付けば、熱田神宮の例祭である「熱田まつり」へ出場し、大舞台で太鼓を打ち鳴らすことができます。

日本全国的にも、太鼓の打ち方を教えてくれる教室は数少なく、かなり貴重でレアな体験ができるハズです。

 募集人数:30名
 参加資格(条件):小学生から高校生まで・男女を問わず。
 活動場所:上知我麻神社社務所(境内南側)
 活動日時:月2回・土・日曜日
 活動時間帯:各1回:14時~17時
 指導者:尾張新次郎太鼓保存会
 費用
・入会金:1,000円
・会費:毎月1,000円
・バチ代:2,000円(3本)

 詳細は熱田神宮文化殿まで

上知我麻神社の建築様式(造り)

上知我麻神社の建築造りは一見すると、境外に建立されている「摂社・高座結御子神社」に造りが似ており、尾張造りと認識してしまいます。

しかし、上知我麻神社の大屋根は入母屋屋根となっていたり、建家の入口に唐破風が付いていますので、完全な尾張造りとは言えない建築様式となります。

上知我麻神社の御朱印

上知我麻神社 御朱印

上知我麻神社では、オリジナルの御朱印をいただくことができる。

御朱印の初穂料は志納金となっているが、平均的な初穂料(値段)は300円。(100円でもいけた!)

熱田神宮・上知我麻神社の場所(地図)

地下鉄伝馬町出口から出て、国号1号線沿いの熱田神宮・南の正門の鳥居をクグり抜けてスグの左脇に位置します。

前方に「太郎庵椿」と言う大きな椿の木が生い茂っています。


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