熱田神宮・本宮(本殿)

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熱田神宮・本宮(本殿)

別宮・八剣宮

創建年

  • 不明
  • 推定:113年頃(景行天皇43年)
再建年

  • 1599年(慶長4年)
  • 1963年(昭和38年)
建築様式(造り)

  • 切妻造り
  • 平入
    ※神明造
屋根の造り

  • 銅葺
鰹木の数

  • 6本
千木の形

  • 内削ぎ
御祭神

  • 熱田大神
相殿神

  • 天照大神(あまてらすおおみかみ)
  • 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
  • 建稲種命(たけいなだねのみこと)
社格

  • 熱田神宮・本宮

熱田神宮・本宮の読み方

熱田神宮の境内には読みにくい名前の御祭神や社殿がありますが、本宮は「ほんぐう・もとみや・もとのみや」と読みます。

熱田神宮・「本宮(ほんぐう)」とは?

「本宮」とは、熱田神宮の主祭神である「熱田大神」の御霊をお祀りしたお社のことで、通常の神社で言うところの「本殿を中心とした御垣内」に相当します。

熱田大神とはすなわち御神体「草薙の神剣」のことです。

熱田神宮の境内は広大ですが、境内の中でもここだけ独立した空間が創造され、「本宮」とされています。

本宮の内部構成

熱田神宮の本宮は伊勢神宮の御垣内と同型の配列配置を以って造営されています。

最奥から・・

「本殿」

御神体「草薙の神剣」が奉斎される場所です。

「瑞垣(みずがき)」

御本殿を護る最後の壁です。ここまで2枚の壁があった

「内玉垣(うちたまがき)」

玉垣とは壁のことです。内玉垣の御門に連接されています。この壁の後ろにももう1枚、瑞垣という壁があります。⬆️手前が拝殿、最奥が御本殿

「中重の鳥居」「中重の広場」

熱田神宮本宮における例祭や神事はこの中重にて執り行われます。神職ですら容易に本殿の御前まで立ち入れないことを鑑みると極限まで外界との隔たりを設けている意志がうかがえます。

神は神界に鎮座してこそ御神力をふるえるものです。

「拝殿(四尋殿)」

四尋殿(よじんでん)の「四尋」とは長さを意味し、「尋」とは両手を広げたときの長さに相当します。

古い長さの単位であり、熱田神宮がかつて熱田社と呼ばれていた頃の名残を留めるものです。

外玉垣御門を中心とし、東西翼廊と四尋殿が連接され、これらを総じて拝殿としています。そして外玉垣が外界との境目に立つ壁となり、これを東西翼廊に連接させることで本宮を形成しています。

熱田神宮の御祭神「草薙の剣」がある場所は本宮の本殿

熱田神宮の御祭神である「草薙の太刀(熱田大神)」は、本宮の「本殿」に祀られています。

熱田神宮の草創は113年頃(景行天皇43年)とされており、日本武尊の嫁である「宮簀媛(みやずひめ)」が、草薙の太刀を奉斎したことに始まります。

しかし、現在に見られるような本宮がどのような過程でできたのか?どのような人物によって造営されたのか?・・などは不明とされており定かではありません。

尚、「本宮」に対して、神様の御霊を分けて(分神)お祀りするお社を「別宮(べっくう・わけのみや)」と称し、正門(南出入口)の西側に「八剣宮(はっけんぐう)」という別宮があります。

 熱田神宮・別宮八剣宮に関しての記述はコチラ


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熱田神宮の創建

熱田神宮は古くから「熱田さま」「宮」と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきた歴史があります。

関東や東北から伊勢へ詣でる際、かつての東海道沿いに面したこの熱田社は、江戸時代にはお伊勢まいりの参拝客で溢れ、熱田社(熱田神宮)から伊勢へ詣でるのが最上の参拝方法とまで云われてきた歴史があります。

熱田神宮の創建は不明とされていますが、日本武尊が死去した後、宮簀媛が武尊の魂が宿りし草薙の神剣を祀ったのであれば、武尊が死去した年代である「景行天皇43年頃」という解釈が成り立ちます。

ただし、日本武尊という人物の実在性が問われていることから、熱田神宮の創建年についてはあくまで不明とされています。

熱田神宮の誕生!『熱田社から→熱田神宮へ』

熱田神宮は実は明治時代まで「熱田神宮」という名前ではなく、「熱田神社」もしくは「熱田社」という名称でした。この理由は現在のように神宮号が授与されていなかったからです。

1868年(明治元年)、江戸幕府が倒れ、政権が天皇へ戻ると新政府である「明治政府」が樹立されます。

同年6月、熱田社に神宮号が宣下され、晴れて「熱田神宮」へと名前を改称するに至ります。

つづいて同年11月には神祇官直轄28社(のちの官祭社)に列し、1871(明治4年)には官幣大社29社のうちの1社に列する偉業を達成します。

快進撃はこれだけに止まらず、1917年(大正6年)2月1日には勅祭社(ちょくさいしゃ/天皇の勅使が下向するほどの崇高な社)に列し、これに端を発し、ついに1881年(明治14年)5月、島根県出雲大社と熱田神宮だけに配置される宮司のさらに上の職となる「権宮司」を配置することが認められています。

これにより、1890年(明治23年)、熱田神宮のみの宮司、権宮司、禰宜、主典5名、官掌5名の配置が認められ、さらに1902年(明治35年)には衛士長(えじ)および衛士の配置までも認められています。

衛士長、衛士は熱田神宮をのぞいては伊勢神宮のみに配置されている職であり、この時点で事実上、伊勢神宮に次ぐ準・最上格の社となっています。

「尾張造り」から「神明造り」へ

第二次世界大戦により、神宮(伊勢)の恒例の行事である「遷宮」が一旦中止され、新たに第59回式年遷宮の造営が、ようやく昭和28年に開始されるに至ります。

時を同じくして、ちょうど熱田神宮でも、これまでの「尾張造り」の社殿から「神明造り」への造り替えが急務とされており、その用材の調達に四苦八苦していました。

しかしここで、1つの案が湧き出てくることになります。

カンの良い方であれば、すでに察したかもしれませんが、そうです。「神宮の遷宮後の古材」を使用すると言うアイデアです。

こうして、神宮の遷宮が終えた昭和29年に、いよいよ熱田神宮でも神宮の古材を使用した「初の遷宮」が敢行されることになります。

神宮の建つ三重県伊勢市から、大型トラック数十台と腕の立つ職人などが集められ、約1週間にも及ぶ資材の運び出しが行われます。

その後、遷宮は無事に事なきを得て、翌年の1955年(昭和30年)11月12日、皇室からの勅使が下向され「熱田神宮」として初の「遷宮式(祭)」が盛大に催されることとなります。

えぇっ?!熱田神宮は過去「寺院だった?!」

これもあまり知られていませんが、熱田神宮の境内にはかつて大規模な「伽藍(寺院)」が存在していました。

この熱田神宮の中にあった寺院を「神宮寺(じんぐうじ)」と呼称し、この様子は室町時代の絵巻にも描かれています。

定かではありませんが、平安期から鎌倉期、そして室町期には熱田神宮の境内に神宮寺の一大伽藍が形成されており、これらの伽藍を総称して「蓬が島(よもぎがじま)」とも呼称していたようです。

「蓬が島」とはすなわち、上述の「蓬莱信仰」における熱田神宮の総称であり、熱田神宮の本宮を「蓬莱宮(ほうらいきゅう)」とも称していたようです。

ちなみに名古屋城の別名である「蓬左城(ほうさじょう)」とは、蓬莱宮(熱田神宮)の左方向に建つ城という意味合いで「蓬佐城」と命名されています。実際に名古屋城は熱田神宮から見れば左方向(西側)に建っています。

この当時、熱田神宮に存在した伽藍のお堂も1つや2つではなく、宮域中の至る場所に建立されていたようです。

現今に至っては、この伽藍の姿は見ることは叶いませんが「蓬莱信仰」が実在した証として、現在も熱田神宮・宝物館には、当時の中国から伝来したとされる珍品(重要文化財)が収蔵されています。

熱田神宮の歴史に興味のある方は是非!参拝だけで終わらせるのではなく、宝物館や文化殿にも足を運んでみてください。ウフ

熱田神宮・本宮の建築様式(造り)

「神明造(しんめいづくり)」

神明造は、もとは原始時代の「天地根元宮造(てんちこんげんのみやづくり)」から発展した「高床式倉庫」から、さらに発展した「最も古い神社建築の様式の1つ」とされています。

しかし、現存する古の時代の建造物は少なく、むしろ明治時代以降に再流行した時の建造物が多く現存しています。

熱田神宮本宮が「尾張造」から「神明造」になったのも明治時代のことで、宮域中のほとんどの社殿にも、同様に神明造が採用されています。

熱田神宮・本宮の建築様式の特徴

「切妻造の屋根」

屋根の最上部から2つの斜面で形成されている屋根です。

神明造の屋根はほとんどが茅葺ですが、熱田神宮本宮の屋根は「銅葺」となっている点が特徴的です。

屋根の上部左右にある、角のように飛び出た「千木(ちぎ)」と、屋根の上に、入り口のある面と直角になるように置かれた「鰹木(かつおぎ)」は、神明造を始めとする神社の屋根の様式の特徴です。

これらは、もともとは屋根の補強のためのものだったと考えられています。

  • 鰹木は屋根を押さえつける役目・呪術的な役目
  • 千木は、屋根の最上の横木(棟)の補助・権力誇示・呪術的な役目

「平入り」とは?

屋根の斜面と平行な壁の面を「平」といい、この面に正面出入り口がある建物を「平入り」と呼称します。

「掘立柱」とは?

地面と柱との間に、土台となるものを敷かずに直接建てた柱です。

また、建物が高床式なので、社殿に上がるまでに長い階段があるのも神明造の特徴です。

熱田神宮の御祭神「熱田大神」の正体とは?

熱田大神は、三種の神器の1つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を御神体とする天照大神(あまてらすおおかみ)のことだとされています。

しかしその実態は不明であり、記紀(日本書紀・古事記)といった古文書にも「熱田大神」関連の記述が見つからないことから「謎の御祭神」として現世にまで語り継がれています。

ただ、熱田神宮には「蓬莱信仰(ほうらいしんこう)」と言うものが存在しており、蓬莱信仰では熱田大神を中国の絶世の美女と云われた「楊貴妃(ようきひ)」を指しています。

この信仰が真実であるならば「熱田大神=楊貴妃」と言うことになります。

 「熱田大神の正体」の関しては以下の当サイトの別ページにてご紹介しておりますのでソチラをご覧下さい。

相殿神5柱

熱田神宮の本宮・本殿には熱田大神の他に以下のような5柱の神が奉斎されています。

  1. 天照大神(あまてらすおおみかみ)
  2. 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
  3. 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  4. 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
  5. 建稲種命(たけいなだねのみこと)

熱田神宮や地元ではこれら5柱の神を熱田大神と同様に「五座の大神」、「五神さま」と呼びならわし、多大なる親しみと崇敬心を以って崇拝してきた歴史があります。

天照大神

天照大神とは伊勢の神宮(内宮)にて奉斎される神であり、熱田大神の正体とされる神です。

素戔嗚尊

素戔嗚尊とは熱田大神の依り代である「草薙の神剣」をヤマタノオロチの身体より取り出した神です。牛頭信仰と習合し京都祇園社(現、八坂神社)で奉斎される神でもあります。

日本武尊

日本武尊とは伊勢神宮の創建した倭姫命(やまとひめのみこと)の甥にあたる人物で、倭姫命より三種の神器「天叢雲御剣(あめのむらくものみつるぎ)」を授かった人物です。のちにこの剣は武尊によって「草薙の神剣」と命名されます。この草薙の神剣こそが現今の熱田大神の依り代とされる御神体そのものです。

宮簀媛命

宮簀媛命とは日本武尊の嫁です。出自は尾張国造家の当主の娘っ子とされています。熱田社(熱田神宮)を創建した人物とされています。

建稲種命

建稲種命は上記、宮簀媛命の兄貴になります。あ、兄貴ぅぃ〜!by.翔 尾張国造家の始祖「乎止与命(おとよのみこと)」の息子です。

兄妹ガン首そろえて日本武尊に仕えたことになります。


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名古屋・熱田神宮の「歴史(年表)」

歴史
113年(景行天皇43年)頃 宮簀媛が草薙神剣を熱田に祀る(熱田神宮の起源)
668年(天智天皇7年) 新羅の僧、道行により草薙神剣が盗まれる※道行の舟が新羅へ向かう途中で難破し、剣は取り戻され、一時宮中に保管されました。
686年(朱鳥元年) 草薙神剣が熱田社(現、熱田神宮)へ戻る。遷宮が斎行される。この頃、尾張国造家の尾張大隅の3男、尾張稲置が熱田社の大宮司を称する。
874年(清和貞観16年) 熱田太神宮縁起が編纂される。
西暦801年から西暦900年 熱田社境内に神宮寺なる寺院が築かれる。神宮寺はのちに「蓬莱信仰」を生み出し、一大伽藍へと変貌を遂げることになる。
907年(醍醐延喜7年) 藤原時平が延喜式を編纂する。熱田社・日割御子社・孫若御子社高座結御子の4社・4座が名神大社に列せられる。
966年(康保3年) 正一位熱田大明神の位を賜る。
1190年(建久元年) 源頼朝が参拝し、剣を奉納する。
1194年(建久5年) 源頼朝の直臣「大江広元」が頼朝の命により参拝し、ふたたび剣を奉納する。
1195年(建久6年) 昨年に引き続き、源頼朝の直臣「大江広元」が頼朝の命により参拝し、ふたたび剣を奉納する。
1291年(正応4年) 2月、熱田社、火災により炎上す(帝王編年記)。
1335年(建武2年) 足利尊氏が参拝し、剣を奉納する。
1419年(応永26年) 7月9日、足利義持が火災により荒廃した本宮を再建し遷宮が斎行される。同時に剣、鏡、法華経などを奉納する。
1590年(天正18年) 太閤秀吉の正妻「大政所」が熱田社へ参拝。123貫文を奉納する
1591年(天正19年) 太閤秀吉の主導により本宮・本殿の屋根が吹き替えられる。
1619年(元和5年) 初代張藩主・徳川義直が、本殿の修理および本宮の敷地を整備する。
1629年(寛永6年) 三代目将軍「徳川家光」が、熱田社へ米100石を奉納する。
1684年(貞享元年) 松尾芭蕉、熱田社へ参拝し、荒廃した境内の惨状を詩して詠む。
1686年(貞享3年) 4月8日、江戸幕府主導による(徳川綱吉)大規模改修工事が実施される。工事終了は7月9日、7月21日に本宮および八剣宮の遷宮が斎行される。
1722年(享保7年) 7月21日、正遷宮が執り行われる。
1736年(元文元年) 2月15日、正遷宮が執り行われる。
1747年(延享4年) 2月3日、正遷宮が執り行われる。
1772年(安永元年) 12月5日、正遷宮が執り行われる。
1795年(寛政7年) 9月23日、正遷宮が執り行われる。
1842年(天保13年) 9月22日、正遷宮が執り行われる。
1866年(格応2年) 孝明天皇、熱田社を「格別の御社柄」と褒め称え勅使を下向させる。この後、社殿の造替が実施され正遷宮が執り行われる。
1868年(明治元年) 6月、熱田社、神宮号を賜るこのときより「熱田神宮」を名乗る。明治天皇が参拝のため下向される。
1871年(明治4年) 5月14日、熱田社、 官幣大社に昇格す。
1878年(明治11年) 再び、明治天皇が参拝のため下向される。
1889年(明治22年) 明治天皇、元赤坂の仮皇居にあった賢所および神嘉殿を熱田社へ寄進。
1893年(明治26年 遷宮の際に神明造へ改修
※それまで尾張造でしたが、この時に伊勢神宮と同様の配置・規模・造りに変更されました。
※遷宮とは、神社の本殿の改修工事などに際し、御神体を他の場所へ移すことです。
1906年(明治39年) 明治天皇、元赤坂の仮皇居にあった賢所および神嘉殿を熱田社へ寄進。皇太子嘉仁親王(大正天皇)が参拝のため下向される。
1914年(大正3年) 4月7日、日本武尊千八百年祭が斎行される。
1916年(大正5年) 大正天皇が参拝のため下向される。
1919年(大正8年) 境内の整備に伴い、大規模拡張工事が実施される。
19319年(昭和6年) 本宮および八剣宮、および境内摂末社すべてを対象とした修理が実施される。
1932年(昭和7年) 11月1日、本宮の仮殿遷座祭が斎行される。
1935年(昭和10年) 天皇が宮中より熱田社へ遥拝し、勅使が下向される。熱田社では本殿、遷座の儀式が斎行され、皇室より幣帛の寄進がある。
1945年(昭和20年) 3月、空襲により焼失
1945年(昭和20年) 5月、3月に引き続き空襲により焼失。境内荒廃す。
1945年(昭和20年) 8月、御神体を飛騨一宮水無神社に疎開のため遷座させる。9月にお戻しする。
1946年(昭和21年) 昭和天皇が参拝のため下向される。
1955年(昭和30年) 10月、再建が成る。11月11日、本殿遷座祭、翌日12日に臨時奉幣祭を斎行。
※再建には伊勢神宮の古用材が用いられました。
1991年(平成3年) 明仁天皇・美智子皇后が参拝のため下向される。
2005年(平成17年) 2005年日本国際博覧会に行幸の際、熱田神宮へ立ち寄られ参拝される。
2007年(平成19年) 10月、本殿の改修に伴う「仮殿遷座祭」
※御神体を仮の本殿に移す行事です。
2009年(平成21年) 10月、「本殿遷座祭」
※御神体を本殿にお戻しする行事です。
2013年(平成25年) 5月8日、「創祀千九百年大祭」が執り行われる。
2006年(平成19年) 10月22日「仮殿遷座祭」を齋行。
2008年(平成21年) 10月10日に「本殿遷座祭」、翌11日に「臨時奉幣祭」を晴れて斎行
2013年(平成26年) 5月8日午前11時より、創祀1900年大祭が斎行される。

以上、ここまでの年表を見れば分かるとおり、熱田社(熱田神宮)における造替はおよそ25年周期に行われてきた歴史があります。

特に江戸時代には徳川御三家として讃えられた歴代の尾張藩主が熱田社の造替を半ば義務づけており、幕府主導で造替工事が実施されています。

【補足】用語集

「三種の神器」とは?

歴代の天皇が継承する宝物で、「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲の御剣(あめのむらくものみつるぎ」と伝えられています。

天叢雲の御剣を熱田神宮では「草薙の神剣」と呼称しています。

鎌倉時代から室町期あたりまで、この熱田にまで権勢を誇っていた「北畠親房(きたばたけ ちかふさ)」は、三種の神器を指して以下のような言葉を残しています。

  • 「鏡」は「正直」を表す
  • 「玉」は自費..あ、イヤイヤ「慈悲」!を示す
  • 「剣」は「知恵」を司る

「御神体」とは?

神が宿り、神の象徴とされる神聖な創造物(石・木・水・火など)のことで「御霊代(みたましろ)」とも呼ばれます。

「天照大神」とは?

国土や山、海、草木を創造したとされるイザナギ・イザナミ両神の娘で「皇室の祖先神」であり「日本国民すべての母(祖)」と位置づけられています。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)」とも呼称します。

通常は天界にあらせられる大御神ですが、自らの分神を地上世界にある神宮(伊勢)へ鎮座されています。

「太陽神」という性格も併せ持っておられます。

古来、伊勢地方などでは「太一(たいいつ」とも呼称されており、これは「北極星」のことを意味し、すなわち「万物すべての母」と言う意味合いになります。

熱田神宮・本宮の場所

本宮は、南門から入って最奥、境内の中心の後方(北側)に位置しています。

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