熱田神宮・西楽所
創建年
- 1686年(貞享3年)
建築様式(造り)
- 切妻造
- 平入
屋根の造り
- 桧皮葺
施工者
- 岡部又右衛門(幕府専属・大工頭)
発願者
- 徳川綱吉(江戸幕府・第5代目将軍)
祭事
- 舞楽神事(5月1日)
- 豊年祭(5月8日)
熱田神宮・西楽所の読み方
西楽所は「にしがくしょ」と読みます。
西楽所の別名
往時は「右楽所」とも呼ばたようです。
熱田神宮・西楽所の歴史・由来
熱田神宮・西楽所は1945年(昭和20年)の名古屋大空襲にて焼失してしまいましたが、元は熱田神宮の南門である「海蔵門(海上門)/旧国宝」の内側に、西楽所と相対する形で「東楽所」も存在していました。
なお、現在の熱田神宮には、「海蔵門(海上門)」はありませんが、かつては、この門の前は砂浜で、近くまで波が押し寄せていたことから「海上」と言う名が付いています。
西楽所は江戸時代の5代将軍徳川綱吉の時に建てられた、由緒ある貴重な建造物となっています。
熱田神宮の「幻の貞享の大造営」
実は熱田神宮の境内は江戸時代の1686年(貞享3年)にも大造営が行われています。
その大造営こそが、熱田神宮の歴史上においても、最大規模の造営とも伝わる「貞享の大造営」です。
貞享の大造営では、熱田神宮の境内の社殿群が修繕(造り替え)されており、東楽所と西楽所に関しては、この時に同時に新造されてい‥‥‥申す。ガフェっ
この大造営は、かなりの大規模工事だったようで寄せ集められた大工の数も述べ1900人以上だったと記録されてい‥‥‥ちょぃ休憩。(ネタ切れ黄色信号)
この1900人の他にも熱田神宮直属の宮大工が150名ほど居たという記録が残されていることから2000人を超す大工が造営に携わっていたことになり申す。
なお、この貞享の大造営によって、それまで以前の社殿はすべて造り替わっており、この時の社殿群が明治時代(明治26年)まで残っていたようです。
現在見ることのできる西楽所は太平洋戦争の空襲の難を逃れた、熱田神宮境内でも希少な江戸期に造営された建物になりまする。
熱田神宮・西楽所の役割り
熱田神宮・西楽所は「楽(能・お神楽)」が奉納される場所です。分かりやすく言えば、舞踊を奉納するための舞台です。
それゆえ、「西側にある楽所」と書いて「西楽所」と呼ばれまする。
往時は東にも楽所があったということは、東西の楽所それぞれで同時に舞踊が奉奏されていた様子が浮かびまする。
それを東西の中央から観覧するといぅ、何とも贅沢な趣向だったことでしょう。
なお、往時は冒頭でも述べたように西楽所を「右楽所」、東楽所を「左楽所」と呼んでいたようです。うきゃ
熱田神宮・西楽所の「祭典・神事」
主に5月1日に開催される平安時代から伝わる舞楽神事の際に、この場所で楽が演奏されます。
また、5月8日に開催される農業神事豊年祭では、西楽所に畠と田をイメージして作った模型が置かれます。
この模型が上手にできれば、その年は豊作となるというように農家の人は田畠の模型の出来栄えでその年の作柄を予想されます。
農業に従事する人を始め、大勢の参拝客でにぎわいます。
写真で模型を見ると、畠や田んぼだけでなく家や人まで再現されていてとても精巧な作りです。
熱田神宮・西楽所の場所(地図)
西門の鳥居をくぐり、正面に見える宝物館手前の参道を左に入り信長塀の向こう側に位置します。
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