名古屋城の歴史を簡単に説明!【旧・国宝】【史跡名勝天然記念物】【重要文化財】

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名古屋城の歴史を簡単に説明!【旧・国宝】【史跡名勝天然記念物】【重要文化財】

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創建年

1615年(慶長20年)※完成
1610年(慶長15年)※着工

建築様式(造り)

平城(梯郭式)
鉄骨鉄筋コンクリート造り(現)
千鳥破風・入母屋破風
連結式天守閣
5層5階地下1階建て

再建年

1752年(宝暦2年)~1755年(宝暦5年)
1959年(昭和34年)
2009年(平成21年)

屋根の造り

こけら葺(本丸御殿)
銅葺(現※本丸御殿以外)

大きさ

本丸:総高48.5m(地盤から)
小天守閣:総高:24.7m

史跡名勝天然記念物登録年月日

1932年(昭和7年)12月12日

重要文化財指定年月日

1930年(昭和5年)12月11日

設計

天守:小堀政一(遠州)、中井正清
石垣:加藤清正

延床面積

4424.5㎡

別称(別名)

金城、金鯱城、鶴ヶ城、柳城、亀尾城、蓬左城

発願者

徳川家康※創建時
名古屋市民※再建時

初代城主

徳川義利(徳川義直)

名古屋城の歴史

戦国時代

名古屋城は「日本で3本の指に入る城」!

日本三名城」と言う言葉をご存知ですか?

日本三名城とは、日本を代表する名城3つと言う意味です。

名城の定義は提唱した人物や時代背景によって異ってくるそうですが、いずれにしても名古屋城はほぼすべての提唱において日本三名城に選出されています。

ちなみに現在の一般的に知られる日本三名城は以下の通りです。

  1. 大阪城
  2. 姫路城
  3. 名古屋城

これに松本城や熊本城なども入る場合があるそうですが、いずれにしても名古屋城は三名城に列挙されています。

名古屋城の前身は漢字違いの「那古野城」?!

また、名古屋城が建つ名古屋の地は(=イコール)織田氏と言うイメージが強く残っていますが、実はもともと名古屋の地は戦国期における東海の覇者・今川氏の所領だったと言う事実はあまり知られていません。

今川氏は現在の名古屋城の場所に城を建て、西上(京都を制圧し天下へ号令)の際の軍事拠点にするつもりでした。

当時の名古屋城の場所は「尾張国・那古野(なごや)」と呼称されており、ここに今川氏(今川氏親/いまがわうじちか)は「柳丸城」や「柳ノ丸城」と呼称される城を造営しています。

しかしその後、織田信秀にあっけなく柳丸城を落とされてしまい奪取されてしまします。

一方、信秀は、この柳丸城を改修し那古野の地名に因んで「那古野城(なごやじょう)」と名付けて自らの居城としました。

後に息子の信長へ「那古野城」を譲り、自らは新たに名古屋の地に造営した「古渡城(ふるわたりじょう)」へ移りましたが、信長は「那古野城」にほど近い清洲の地へ城を新たに造営したために「那古野城」は廃城に至ります。

江戸時代

その後、しばらく時代を経て関ヶ原合戦が勃発し、この合戦では東軍の徳川家康が勝利し、江戸への要衝であった尾張の地に自らの九男坊である徳川義利、のちの徳川義直に統治を命じます。

統治を行うには中心となる居城が必要になりますが、当時の名古屋の中心地であった清洲城を通常であれば改築し居城とするのですが、家康は敢えて清洲城を廃して、新たに旧今川氏の古城・柳丸城が建っていた場所に城を造営しています。

これには理由があり、清洲城の周りは川に囲まれており、その影響から地面が水分を多く含み地盤が不安定と言ったことになります。

そこで目を付けたのが上述した旧・今川氏の居城「柳丸城」であり、城を造営する際には清洲城の廃材を使用して新しく新設する城の東西南北の隅櫓に使用しています。

有名な「清洲越し」とは?

そしてこれらの清洲から那古野へ中心地を移した一連のことを家康は「清洲越し」と呼称し後世にまで語り継がれています。

この後、工期を経て完成したのが「名古屋城」と呼称される名城になることになります。

ちなみに上述の「清洲越し」の折、徳川家康によって現在の名古屋市内の道路や住宅地などの区分け(街の配置)が決められています。

「清洲越し」の意味とは?
「清洲越し」の意味とは、「清洲を引越して那古野へ」や「清洲を越えて那古野」などと言った意味合いがあります。

そして清洲越しと同時進行で名古屋城の造営計画が開始されますが、名古屋城の築城工事では大規模な工事計画が敷かれ、日本全国各地の諸大名が名古屋城の造営のために資金提供や資材を提供しています。

資材は木曽山中のふくよかなヒノキ材が使用され、日光東照宮の造営で後に名を馳せることになる「小堀政一(遠州)」「中井正清」をはじめ、加藤清正、福島正則と言った戦国期に勇名を馳せた武将までもが造営に加わることになります。

名古屋城の誕生

城が完全な形で完成を迎えたのが1615年(慶長20年)で着工から約5年と言う期間を要しての完成に至っています。

完成後、名古屋城の歴史上最大と云われる「宝暦の大改修」と呼称される大改修が1752年(宝暦2年)~1755年(宝暦5年)に行われ、この改修では城全体の傾きを修正し、天守閣2層目より上部を補強するために銅瓦へ葺き替られています。

しかしこの後、大政奉還によって徳川幕府が滅び、新たに明治政府が樹立し新時代の幕開けを迎えます。


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明治時代

名古屋城は1度、取り壊されていた?!

明治時代に入ると文明の近代化が起こり、その影響から日本にもファシズムが蔓延しはじめ、軍部の発言力が序々に増してくると、名古屋城は軍事拠点として目を付けられ、今度は陸軍の管理下に置かれてしまいます。

そして城内には陸軍の司令本部をはじめ、至る場所に兵舎や武器庫が設営され、さらに軍事施設拡張のために名古屋城の取り壊しまでもが半ば決定してしまいます。

取り壊しがほぼ決定した際、シンボルであった屋根上の2つ金鯱が外され、時をほぼ同じくして開催れていたウィーンのバンコク博覧会へ出展されてしまいます。

しかしこの博覧会では予想を大きく上回る好評を得る結果に至り、奇跡的に取り壊しが中止となります。

昭和時代

その後、明治26年には宮内省の管理下に置かれて「離宮」として存続していくことになり、昭和5年には、新たに新設された「名古屋市」へ下賜され、名古屋市の管理下に置かれます。

しかししばらく後、第二次世界大戦が勃発し日本は米軍を中心とした世界連合軍に降伏しポツダム宣言を受諾するに至りますが、惜しくも1945年(昭和20年)5月14日の終戦直前に名古屋城は終焉の時を迎えることになります。

米軍最大規模とも言われる東海大空襲によって名古屋の街もろとも、天守をはじめとしすべて焼け落ちてしまい石垣だけの状態に晒されて(さらされて)しまうことになります。

ちなみに東海地方が米軍に狙われた理由とは、名古屋が当時の日本における大規模な軍事工場や軍事拠点があり、これらはスパイを通して米国へ情報が筒抜けに漏洩していたため、「目を付けられていた」といったことになります。

名古屋城の再建!

終戦後、1959年(昭和34年)に名古屋市民から名古屋復興の一環として、まずは名古屋の象徴である名古屋城を取り戻そうとする動きが出始め、市民からの集められた資金によって再建され、現在に至っています。

しかし実は現在も市民の声によって創建当初の名古屋城の姿を復元すべく、2009年(平成21年)より本丸御殿の再建工事(復原工事)が進められています。創建当初の設計図をもとにして創建当初の資材を使用し再建工事が進められており、018年(平成30年)に無事、完成を迎えています。

ただし、2016年に鉄筋コンクリート造りの天守の耐震強度問題が取りざたされ、一般見学が中止になっています。現在の名古屋城の鉄筋コンクリート造りの天守は1959年(昭和34年)に地元商店街の有志の出資によって再建されましたが、鉄筋コンクリートの寿命がおよそ40年と言われ、現在、名古屋城天守は59年目を迎えています。

これに端を発する形で現在、2022年に木造天守復原完成を切望する名古屋市長「河村たかし」氏と、現在の鉄筋コンクリートの耐震補強工事を希望する一部の市民グループとで議論が重ねられています。

なお、木造天守復原事業は文化庁の許可が下りないことから2018年現在も再建工事には至らず、議論だけが重ねられています。

はたして木造天守の完成は成るのか?はたまた、木造天守完成計画が成ったところで2022年に完成を迎えることができるのか、今後の動向に注目です。

名古屋城が近代の再建でも重要文化財指定を受ける理由

実は名古屋城は昭和20年に焼失する前に今思えば奇跡と言えるべき調査が執り行われています。

この奇跡の調査は1932年(昭和7年)に行われており、この調査では名古屋城の緻密(ちみつ)な設計図を作るべく、名古屋城の隅々まで正確に計測して以下のような設計図が作図されています。

金の鯱の断面図
天守閣の断面図
清書図282枚
拓本貼付27枚
総計309枚

その他、名古屋市主体で昭和15年から昭和16年にかけて国宝指定の建造物や御殿の壁画などの写真撮影も行われ、これらの写真の総数は述べ700枚は優に超えると言われています。

ちなみに、これらの図面や写真は「昭和実測図」と呼称されるもので、日本全国の城でも創建当初の資料として、これほど多くの図面や資料が現存しているのは名古屋城だけとなります。

例えば、現在の名古屋城がこれらの図面や資料をもとにして近代において再建したとしても、創建当初の姿を「寸分たがわぬ状態」で復原することが可能になります。

つまり、これが創建当初の姿を留めているといったこととなり、これが重要文化財の指定を受けている最大の要因となります。

名古屋城の建築様式(造り)

現在の名古屋城の屋根は銅製の屋根瓦で葺かれており、屋根の形は以下のような構成になっています。

天守

まず天守には金の鯱が2つ取り付けられています。

鯱とは?

鯱は「しゃちほこ」と読み、古代中国から伝来した「水を自在に操る伝説上の怪魚」のことです。

鯱を屋根に据えることで「火除け(火難避け)」の願掛けの意味合いがあります。

金の鯱の下の屋根は「入母屋屋根」が据えられ、その下に「殿な気分になれる天守閣」があり天守閣の下には「千鳥破風(ちどりはふ)」が据えられています。

この千鳥破風とは、屋根の角に合わせずに屋根の途中に入母屋屋根を載せる格好になるので、城に用いる屋根の大きな特徴になります。

さらに千鳥破風の下にも今度は千鳥破風が2つ付いていますが、これを単に千鳥破風を呼称せずに「比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)」と呼称し、つまりは2羽の鳥が羽を広げていると言う意味合いを持ちます。

「比翼千鳥破風」の下には唐破風があり、その側面にひときわ大きな破風がありますが、これも入母屋破風といいます。

名古屋城の天守の造りは姫路城に類似した造りをしており、色彩を同じにして遠目に見たら見間違うほどです。

かつての天守は木曽産のヒノキの厚版を何重にも重ねた壁に漆喰を塗って造営されており、これは大砲の弾を跳ね返すための意匠と言えます。

ちなみに現在の名古屋城は「鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)」で造営されています。

大天守は5層7階建てで内部にはエレベーターが設置されており、バリアフリーになっているため車椅子も通行できます。

ただし、外観は上述した設計図をもとに忠実に再現されていますので、創建当初の姿が復元されています。

尚、名古屋城の延床面積は4424.5㎡あり、これは日本に数ある城の中でも史上最大規模となります。

名古屋城の構成

名古屋城はかつては以下のような構成で造営されていました。

本丸の構成

  • 大天守
  • 小天守
  • 西南隅櫓
  • 東南隅櫓
  • 表二之門

本丸御殿の構成

  • 玄関(附属:車寄)
  • 大廊下
  • 表書院
  • 対面所
  • 梅之間および鷺廊下
  • 上洛殿
  • 湯殿書院
  • 黒木書院
  • 上御膳所
  • 下御膳所
  • 柳之間および孔雀之間
  • 上台所

現在は、かつて城内に存在した細かな建造物は存在しておりませんが、本丸の周囲を以下のようなミニ城(出城)が取り囲む構造で造営されています。

  • 南東に「二の丸」
  • 南西に「西の丸(にしのまる)」
  • 北西に「御深井丸(おふけまる)」
  • 南から東、東南から北にかけて「三の丸」

【補足】かつての名古屋城・三の丸の場所

三の丸は名古屋城の玄関口となり、敵の侵攻を阻む第一の砦となりますが、現在の名古屋城には三の丸は存在しません。

しかし、かつては確かに三の丸が存在しており、その場所とは次の通りです。

三の丸の東西の場所と距離

現在の三の丸は名古屋高速都心環状線を境として西は丸の内交差点、東は市政資料館南交差点まであり、東西の長さは約1.3Kmあります。

⬆️赤色の枠内が、かつての名古屋城三の丸の場所
三の丸の南北の場所と距離

また「市政資料館南交差点」から北側へも三の丸の敷地が存在していました。

その北とはちょうど現在の「柳原一交差点あたり」まであり、南北の距離は約1Kmになります。

尚、かつての三の丸の敷地内には武家屋敷や神社、寺院などが存在していましたが、ほとんどは移設されており、現在では名古屋市役所をはじめ裁判所、愛知県庁、中税務署、名古屋医療センターがあります。

三の丸の西端

他にも三の丸の西端には中日新聞社、KKRホテル名古屋、名古屋能楽堂と加藤清正像があります。

駅は東側に地下鉄名城線・市役所前駅、名鉄・東大手駅があります。

三の丸北側の名城公園は名古屋城と関係があるのか?

ちなみに名古屋城の北側に広がる「名城公園」は、かつての名古屋城の敷地と思われがちですが、残念ながらかつては沼地でした。

後に軍部の兵舎設営のために埋め立てられ、その後に現在の名城公園となっています。

【補足】名古屋城の年間来場者数の比較

首里城
  • 平成22年:167万人
  • 平成23年度:168万人
  • 平成24年度:175万人
  • 平成25年度:181万人
  • 平成26年度:187万人
元離宮二条城

平成22年:157万人

平成23年度:141万人
平成24年度:149万人
平成25年度:162万人
平成26年度:165万人

名古屋城

平成22年:151万人
平成23年度:141万人
平成24年度:147万人
平成25年度:165万人
平成26年度:164万人

熊本城

平成22年:144万人
平成23年度:158万人
平成24年度:157万人
平成25年度:159万人
平成26年度:163万人

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