名古屋以外の地域から熱田神宮へ訪れた方であれば、知る由もないと思われますが、ぬっ、ぬっあんと!
熱田神宮には自社と深い関連した古墳があると言います。
さらになんと!
驚くことにこの古墳は大型の古墳であり、1つだけではなく2つもあります。
そして驚きとは連続してやってくるもので・・なんと!!熱田神宮では、例年、5月の1週目にこの古墳で祭典を執り行い、神職が古墳の前で祝詞(のりと)をあげていると言います。
通常、私たちが一般的な観点で考えると、熱田神宮のような神宮(伊勢)に次ぐ社格を持つ大社が、古墳で祭典(神事)を行っていると言うのはじられないことです。
そこで以下では、「この2つの古墳と熱田神宮との関連性」と「いったい何故、熱田神宮が古墳で祭典を執り行うのか?」について述べています。
熱田神宮の関連がある古墳その1「断夫山古墳(陀武夫御墓)」
熱田神宮と関連のある1つ目の古墳の名前を「断夫山古墳」と呼称し「だんぷさんこふん/だんぷやまこふん」と読みます。
ちなみに熱田神宮では「陀武夫御墓」と呼称するようです。
この古墳の被葬者は(眠っておられるのは)なんと!あの伝説的ヒーローである「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の嫁ハンである「宮簀媛命」であると云われています。
宮簀媛命は「みやずひめ」と読み、これは日本書紀においても読み方で、古事記では「美夜受比売」と記載されています。
ただし被葬者に関しては諸説あり、他の説としてはかつてこの愛知県を支配をした尾張氏の当主級(首長)の古墳とも云われています。
ええっ?!「断夫山古墳」がパワースポットだった!?
近年では「パワースポット」が流行していますが、この断夫山古墳も名古屋のパワースポットの一角として知られるようになっています。
断夫山古墳がパワースポットである理由は諸説あるようですが、まずはやはりパワースポットに欠かすことのできない「森林(杜/もり)」があると言うのがもっとな理由と言えます。
しかし、やはり何よりも長きに渡って神の力を宿した「草薙の剣」を守護し、またはパワーの象徴でもある英雄・日本武尊の嫁ハンでもある「宮簀媛命」も相当なパワーを帯びていたと推測されます。
断夫山古墳の名前の由来
ところで・・「断夫山古墳」の名称について疑問を持たれた方も多いのではないでしょうか?
特殊すぎる名前なので、その名前の由来を知りたいと思いませんか?
実は「断夫山古墳」の「断夫」とは「夫を断つ」・・と言う意味があります。
そしてこの風変わりな名前の由来のもととなっているのが、この古墳で永眠されている「宮簀媛命」の人生に関与するものであるからです。
宮簀媛命の夫である日本武尊は遠征(えんせい/戦争)に赴き、嫁ハンを残して先に命を散らしました。
その後、夫を心の底から愛していた宮簀媛命は毎夜、涙が枯れるまで泣いたそうです。
しかしある時、このままではいけないと夫を忘れるために「夫を断つ」と宣言したそうです。
以降、宮簀媛命は再婚することなく生涯を終えたそうです。
これがこの古墳の名前になっています。
断夫山古墳の「歴史(造られた年)・造り・出土品」
- 正式名称:断夫山古墳【国指定史跡】
- 住所(所在地):愛知県名古屋市熱田区旗屋1-10-45
- 造られた年:西暦501年から西暦600年(6世紀/古墳時代)
- 造り(形状):前方後円墳
- 国指定史跡登録年月日:1987年(昭和62年)7月9日
大きさ
全長:151m
前方部の幅:116m
後円部の直径:80m
高さ
前方部:16.3m
後方部:13m
被葬者
宮簀媛命 ※熱田神宮・伝
尾張氏首長クラス(尾張連草香or目子媛(メコヒメ))※推定
断夫山古墳の歴史(年表)
1876年(明治9年)熱田神宮の私有地として熱田大宮司家が管理する
1980年(昭和55年)第二次世界大戦後、名古屋市の戦災復興事業の一環で愛知県の管理下へ
1987年(昭和62年)7月9日「断夫山古墳」として国指定史跡に指定登録される
断夫山古墳の出土品
須恵器(すえき)、埴輪片、大型円筒埴輪、土師質・須恵質
断夫山古墳へのお問い合わせ先
愛知県教育委員会生涯学習課文化財保護室保護グループ
TEL:052-954-6783
断夫山古墳の場所(熱田神宮からのアクセス)
熱田神宮の西門から断夫山古墳への所要時間は徒歩で約15分です。
地下鉄神宮西駅の4番出口からですと徒歩約10分になります。
熱田神宮、神宮西駅ともに熱田神宮の境内の周囲を走る大通り「国道19号線(伏見通り)」を熱田神宮の北の方角へ向けて歩きます。(名古屋熱田神宮西郵便局の方角)
↓伏見通りをしばらく直進すると歩道橋が見えてきますので、この歩道橋を越えてスグ左折します。
↓あとは民家を間を抜けながら直進します。
↓やがて寺院が目の前に出てきますので寺院が見えたら右折します。目の前の断夫山古墳の杜が見えてきます。
熱田神宮の関連がある古墳その2「白鳥古墳(白鳥御陵)」
熱田神宮と関連性のある古墳として、前述の断夫山古墳に引き続いて「白鳥古墳(白鳥御陵)」があります。
この古墳で永眠されている方(被葬者)は、勘の良い方であれば、すでに察しがついていると思われますがその人物がお分かりになりますか?
・・そうです。
その人物とは上述の「宮簀媛(みやずひめ)」の夫である「日本武尊(やまとたけるのみこと)」になります。
しかし日本武尊は現在の滋賀県へ遠征に赴き、伊勢国・能褒野(のぼの/現在の三重県亀山市田村町)で命を散らしています。
そして現在も日本武尊が命を散らしたとされる伊勢国・能褒野には、日本武尊が祀られており「日本武尊能褒野御墓(やまとたけるのみことのぼのおんぼ)」と呼称される古墳まであります。
しかし不思議だとは思いませんか?
三重県にも日本武尊の墓があるとなれば、日本武尊を祀る古墳が2つ存在することになります。
実はこれには、想像を絶するようなストーリが伝承されているからです。
ちなみに、なんと!このストーリーに基づいたお守りまでもが、熱田神宮で授与されているとすれば、さらに驚かれますでしょうか?
そのストーリーとは、以下でご紹介するのような「白鳥伝説」と言う日本武尊と宮簀媛が織り成すプチ切ないストーリーになります。
熱田神宮に伝わる伝説「日本武尊と白鳥伝説」
日本武尊は第12代景行天皇の皇子(王子様♥のことねチュッ)であり、幼名を「小碓尊(おうすのみこと)」と呼称します。
そんな日本武尊には、生まれ持った特殊な能力が備わっていました。
その能力と言うのが怪力と知恵と勇気です。
この能力は武尊が年を経るごとに顕著に現れて、やがて頭角を示すようになります。
そこで父王である景行天皇はとあることを武尊へ命令します。
それが日本国の統一でした。
そしてその統一事業の総大将を武尊とし、遠征に向かうように命令を下します。
ここから日本武尊の日本各地への遠征の旅が始まります。
遠征に向かった武尊はと言うと、遠征でも能力を発揮して各地を「向かうところ敵なし」の破竹の勢いで勢力圏を広げていきます。
そしていよいよ遠征からひとときの帰還をすることになり、愛するラブリー(宮簀媛)の待つ自宅へ帰ることになります。
ここで熱~いHOTな夜を過ごした後、再び遠征に赴く運びとなりますが・・なんと!ラブリーが悲しがって遠征なかなか出ることができなくなりました。
そこで自らの命と等しいほど大切な神剣・草薙の剣をラブリーへ預けて「必ず戻るからその証拠としてこの剣を預けていく。」・・と、言ってラブリーを安心させて、今度は滋賀県への遠征に向かうことになります。
滋賀県へ遠征に向かった先では、草薙の剣を帯刀していなかったことが原因なのか、思うように遠征が立ち行かず、ついには敵に毒をもらってしまい、一旦、陣を引き払って退却することになります。
そして、退却の帰途の途中の伊勢国・能褒野の地にて毒が全身に回り、ついにここで命を散らすことになります。享年30歳でした。
・・と、まぁ普通ですとここでチャンチャン♪的にこのお話は終わっチっチまうのですが、これで終わらないのが日本武尊伝説です。
なんと!日本武尊の骸(むくろ)は、突然、生まれ変わったかのように「白鳥」に姿を変えて、ついには大空へ羽を羽ばたかせて大空を駆けていくことになります。
そして「能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)」→と、羽ばたき、最後にラブリーの待つ「白鳥古墳(白鳥陵墓)」と降り立ったと云われています。
以上、ここまでが日本武尊の白鳥伝説と言うことになります。
ちなみに、上記の日本武尊(白鳥)が羽ばたいて羽を休めるために立ち寄ったとされる「大和琴弾原(奈良県御所市)」や「河内古市(大阪府羽曳野市)」にも、武尊を祀る陵墓が築かれて現存しています。
日本武尊の白鳥伝説にご興味のある方は、少し熱田神宮とは離れていますが是非!立ち寄ってみてください。
【補足】日本武尊の白鳥伝説に因んだ熱田神宮のお守り
上述した武尊の白鳥伝説と関連のあるお守りをなんと!熱田神宮では授与されています。
そのお守りの名前を「白鳥守り」と呼称します。
熱田神宮のお守りに関しては当サイトの以下↓の別ページでご紹介しております。
白鳥古墳の「歴史(造られた年)・造り・出土品」
正式名称:白鳥古墳【愛知県指定有形文化財】
住所(所在地):〒456-0035 愛知県名古屋市熱田区白鳥1-2
造られた年:西暦501年から西暦530年(6世紀初頭/古墳時代)
造り(形状):前方後円墳
愛知県指定有形文化財指定年月日:1968年(昭和43年)3月11日
大きさ
全長:70m
前方部の幅:55m
前方部の長さ:30m
後円部の直径:45m
高さ
前方部:7m
後方部:6.5m
その他
周濠(堀):幅約10m※現在は削られています。
石室の造り
石垣組み
石室の大きさ
全長約3.7メートル
全幅1.2-1.5メートル
深さ1.5-1.8メートル
被葬者
日本武尊(熱田神宮・伝)
尾張氏の首長クラス
白鳥御陵の歴史(年表)
1876年(明治9年)熱田神宮の私有地として熱田大宮司家が管理する
1980年(昭和55年)第二次世界大戦後、名古屋市の戦災復興事業の一環で愛知県の管理下へ
1968年(昭和43年)3月11日「白鳥御陵」として国指定史跡に指定登録される
1951年(昭和26年)に名古屋大学による調査が行われる
白鳥御陵の出土品
銅鏡
六鈴鏡、馬具、楕円形鏡板、f字形鏡板、劍菱形杏葉、鐘形杏葉、辻金具
武器
直刀、鉾、小刀、玉類、勾玉、切子玉、管玉
須恵器
器台付三連坩、子坩四個脚付短頸壷、蓋付小坩、高坏、蓋類、器台
その他
双魚形腰佩
白鳥御陵の場所(熱田神宮・神宮西駅からのアクセス・行き方)
白鳥御陵は神宮西駅から徒歩約5分ほど。熱田神宮の西門からですと徒歩約10分ほどでアクセスすることができます。
地下鉄神宮西駅からのアクセス方法としては、神宮西駅の4番出口を出て目の前に見えるお寺「全隆寺 鳳凰殿」の前を通る形で直進します。あとは次に見えてくる交差点を右折して1つ目の交差点を左折して直進すれば「法持寺」と言う寺院が見えてきます。この法持寺の横が白鳥御陵(白鳥古墳)になります。
【補足】その他、2つの古墳の近くにある観光スポット
白鳥庭園
上記の白鳥陵墓の隣の川の向こうに見えています。徒歩約3分ほどの距離です。
白鳥庭園は名古屋市内で最大規模を誇る日本庭園であり「池泉回遊式」で造庭されたになります。
「池泉回遊式」とは、「ちせんかいゆうしき」と読み、安土桃山時代から江戸時代にかけて流行した趣を凝らした庭園です。
趣とは、池の中に島を設けて池の周囲には散策できるように遊歩道を造り、池の中の島には橋を架け、これらの歩道を回遊しながら歩けるようにした庭園です。
白鳥庭園は「中部地方の地形」が広大な敷地全体に表現されており、庭園の中に造られた小山は「御嶽山」を表現し、その中に川を造り「木曽川」を表現しています。
そして木曽川から上述した池へ流れており、池を「伊勢湾」に見立てているそうです。
すなわち、これらを全体的な視点で見てみると「山から水が流れて川から海へ」となり「水の物語」をもテーマに組み込んで再現されています。
尚、現存する池泉回遊式の庭園としては、加賀(石川県)の兼六園(けんろくえん)や、京都・金閣寺が有名です。
白鳥庭園の「入園料金(割引料金)・営業時間・定休日(休園日)」
入園料金:大人(中学生以下 無料)300円
開園時間:9時00分~17時00分 (入園:16時30分まで)
休園日:毎週月曜日(ただし月曜日が休日にあたる場合は直後の休日でない日)、年末年始(12月29日~1月3日)
※茶屋・清羽亭は、施設利用のない木曜日・土曜日・日曜日・休日のみ見学可能
割引適用媒体
団体割引
30人以上:270円(高齢者:90円)
100人以上:240円(高齢者:80円)
高齢者割引(名古屋市内在住 65歳以上):100円
定期観覧券割引:大人1200円・高齢者400円
入園無料適用媒体
身体障害者手帳など公的な手帳を持つ方
駐車場料金
1回あたりの料金
大型自動車:1,200円
普通自動車:300円
自動二輪車・原動機付自転車:150円
白鳥庭園の「開園年・面積・電話番号」など
開園:1991年(平成3年)4月14日
敷地面積:約3.7ヘクタール
住所:〒456-0036 愛知県名古屋市熱田区熱田西町2-5
電話番号: 052-681-8928
FAX: 052-681-9288
管理機関:白鳥庭園管理事務所、岩間、トーエネック、みどりの協会グループ
熱田神宮公園
敷地内は意外に広く、断夫山古墳以外にも野球場にゲートボール場、テニスコートに公園が3つほどあります。
散策のあとにでも弁当片手に休憩がてら利用してみるのも良いですね。
ちなみに熱田神宮公園のブランコは最近まで使用禁止されていましたが、現在は再び使用することができます。
たまにはブランコに乗ってガキんちょのように我を忘れるくらいの寄生をあげて、クソほどコギまくってみるのも良いです。
心が童心にかえり普段の日常を忘れてリフレッシュすることができます。
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