熱田神宮・日割御子神社

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熱田神宮・日割御子神社

熱田神宮・日割御子神社

創建年

  • 不明
  • 推定:紀元前427年から291年(孝安天皇49年〜孝安天皇102年1月9日)
再建年

  • 1291年(正応4年/鎌倉時代後期)
  • 1553年(天文22年/室町時代後期)
  • 1686年(貞享3年/江戸時代)
  • 1740年(元文5年/江戸時代後期)
  • 1927年(昭和2年)
  • 1963年(昭和38年)
建築様式(造り)

  • 一間社・流造
  • 平入
  • 堀立柱
  • 前方階段付き
屋根の造り

  • 銅葺き
御祭神

  • 天忍穂耳尊
社格

  • 熱田神宮・(境内)摂社

熱田神宮・日割御子神社の読み方

日割御子神社は「ひさきみこじんじゃ」と読みます。




日割御子神社の名前の由来

かつて、日割御子神社が建つ当地は昔は海岸のちょうど先端にあたる場所であったと云われる。現に熱田神宮の周りでは弥生時代の貝塚がたくさんの見つかっている。

日割御子神社の「日割(ひさき)」という名称も、もとは「海岸沿い(洲崎/すざき)」に因んだ「干崎(ひさき)」という地名に由来しているとの言い伝えがある。

日割御子神社の別名

日割御子神社には、別の名前が存在し、江戸時代には「日破宮(にっぱきゅう)」もしくは「日破明神」と呼ばれていた。

「日破」とは、占いの一種で1日の吉兆・凶兆を占う術のこと。

この「日破」という占いによって「ある方角」を出し、その方角の反対の方角で何かを行うと「破れ」と呼ばれる一種の「凶兆」が起こるとのこと。オホっ

往時の熱田神宮は蓬莱宮(ほうらいきゅう)とも呼ばれたように境内では古代中国などの大陸から伝来した「占術」が度々、執り行われていた姿が想像につく。

日割御子神社御祭神「天忍穂耳尊」

日割御子神社の御祭神は「天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)」と言い、別名で天忍骨尊(あめのおしほねのみこと)」とも呼ばれる。

「古事記」では「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」という長名で記されており、どうやら此方が正式名となる。

天忍穂耳尊は、天照大御神の子神であることから、皇位を継承することになっていた。しかし、皇位継承の準備中に自らの子供が生まれたので、その子に皇位継承を譲位したと伝わる。

なお、先代旧事本紀においては「尾張氏の遠祖」と記るされている。

しかしながら、当社にまつわる旧記を覗くと、どうやら御祭神が時代を下りながら変わっている様子がうかがえる。

  • 熱田宮旧記では「火徳神」
  • 熱田大神宮記、熱田尊命記集説、張州府志、熱田宮略記では「迦具土神(かぐづちのかみ)」
  • 尾張志、神名帳頭註、特選神名牒、神社要録では「建貝児王(たけかいこおう/ヤマトタケルの子供)」
  • 熱田神体傳、尾張国式社考、参考本國神名帳集説では「稻依別王(いなよりわけ/ヤマトタケルの子供)」

以上をまとめると、熱田社(熱田神宮)が著した書物であることから、当時の熱田社は火の神を当社に奉斎していたことになり申す。

それが明治初頭の神仏分離令もしくは、同時代に境内の社殿群が神明造りに改造されたあたりで現在の御祭神に改められた可能性も示唆される。

江戸時代の熱田神宮の境内には堂塔が軒を連ねていたことから、位置づけ的には「神宮寺」であり、当時の当社は本地仏を地蔵菩薩とされていたことが旧記に記されている。




日割御子神社の歴史

日割御子神社の創建は不詳とされていますが、孝安天皇の御代であることが明らかにされています。

「尾張国式内社 明神大社・8社」のうちの1社でもあり、一説によると熱田神宮・本宮の創建よりも以前の創建であると伝えられている。

927年に編纂された延喜式神名帳に「愛智郡 日割御子神社 名神大」なる記述が見えることから、これを正とするならば平安時代にはすでに名神大社に列せられる形で存在していたことになる。

839年(貞観11年)に編纂された「続日本後紀」には、「尾張国 日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣前奉預名神 並 熱田大神 御児神也」という記述が見える。

熱田神宮の社伝によれば以下の年数に修造の記録が残されている。

  • 1291年(正応4年/鎌倉時代後期)
  • 1553年(天文22年/室町時代後期)
  • 1686年(貞享3年/江戸時代)
  • 1740年(元文5年/江戸時代後期)
  • 1927年(昭和2年)

慶長年間(江戸時代初期)には堀尾吉晴が当社の再建工事を執り行っている。

なお、冒頭でも述べたように江戸時代の当社は「日破宮(にっぱきゅう)」「日破明神」などと呼ばれ、御所町(現在の八剣宮の南東あたり)に建っていたとされる。

1844年に編纂された尾張名所図会によれば、南新宮社などと居並ぶ様子が描かれている。

1927年(昭和2年)5月に社殿の修理が実施されていることが記されているが、1945年に太平洋戦争の戦災により焼失。

その後、1982年(昭和57年)4月に再建されており、これが現在見られる社殿の姿。

日割御子神社の建築様式・特徴

日割御子神社の大きな特徴としては、社殿が境内の神社の中でも、かなり大きめに造られている

熱田神宮・日割御子神社の場所(地図)

境内の一番南、正門である南門の手前付近に鎮座しています。

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