熱田神宮・信長塀
創建年(造営年)
- 1560年(永禄3年)
塀の種類
- 築地塀
発願者(寄進者)
- 織田上総介信長
信長塀の読み方
信長塀は「のぶながべい」と読みます。
信長塀は、織田信長が発願されているので「信長」の名前をとって造営されています。
熱田神宮・信長塀の歴史・由来
1560年(永禄3年)6月、今川義元率いる軍勢約2万5000が織田家の領土である尾張・桶狭間(おけはざま)へ侵攻してきやがります。後世で伝えられる有名な「桶狭間の戦い」です。
この報を聞いた信長は、自ら手勢3000を率いて桶狭間に向けて出陣するのですが、その際、この熱田神宮へ詣でて、戦勝祈願するための願文を奉納しています。
そのご利益があってか、桶狭間の戦いで見事勝利を収めたため、御礼として奉納したのがこの信長塀です。
実は、この信長塀は「日本の三大塀」と呼ばれているくらい国内では有名な塀です。
「日本の三大塀」の一覧
- 大錬塀(おおねりべい)(兵庫県西宮市・西宮神社)
- 太閤塀(たいこうべい)(京都府・三十三間堂)
- 信長塀(のぶながべい)
信長塀の日陰側には緑の苔が生えており、長い年月を経て今もなお、当地にそびえたっているという歴史を感じさせます。
えぇっ?!京都ににも信長塀がある?!
実は信長塀が京都にもあるとすれば驚かれますでしょうか。
詳しい場所は京都石清水八幡宮の境内です。
同様に石清水八幡宮の信長塀もなんと!織田信長公が1580年(天正8年)寄進したとのことで、作り方や様式、姿形に至るまで熱田神宮境内の信長塀そのものです。
ただ、石清水八幡宮の方の信長塀は造営当初のものが現存していることから、熱田神宮の信長塀のように短くはなく、長いです。
信長塀とは?『信長塀の造り』
信長塀とは、築地塀(ついじべい)をさらに強化して要塞の壁としての機能性を持ち合わせた壁になります。
築地塀とは、一般的に「築地塀」や単に「築地」とも呼ばれる壁の一種です。
築地塀は貴族(公家)の邸宅や寺院などの敷地を囲む壁として用いられることが多いのですが、ことこの熱田神宮の築地塀にかぎっては従来の築地塀とは作り方、見た目をとっても大きく一線を画しています。
理由は使用されている材料と作り方にあります。
信長塀は、土と石灰を油でよく練り合わせたものに、さらに瓦を混在させながら、練り土と瓦を積み重ねるように上へ上へと積みあげていき、最後に瓦葺きの屋根を据えて完成させています。
さらに塀の屋根にかけた瓦はなんと!この熱田神宮境内の本宮の北側の空き地に竈(かま)が造られ、ここで丁寧に焼き上げられています。
現在はすでにこの竈は存在しませんが、このような由緒を有することから、以来、この竈のあった場所は「瓦焼」と名付けられています。
信長塀の軒丸瓦とはに注目!
信長塀の軒丸瓦(のきまるがわら)には、三つ巴紋が施されていますが、これはおよそ平安後期から取り込まれた一種の火災よけの呪い(まじない)のようなものです。
この当時の人々は三つ巴紋が水玉の形に見えたことから、水を連想して火難除けの呪いとして取り入れたものだと考えられています。
この信長塀の軒丸瓦をよく見ればキレイな三つ巴紋が施されています。
この土塀が火事になって炎上することは考えにくいのですが、類焼を防ぐための呪いだと考えることができます。
信長塀の大きさ(長さ)
この信長塀は、作られた当時はなんと全長が400メートルもあったとされていますが、時代の変遷により縮小されて、現在ではほぼ3分の1の長さにあたる120メートルにまで短くなっています。
なお、造営当初の長い信長塀を観たい場合は、上述、京都石清水八幡宮の境内へ訪れてみてください。
信長塀は要塞の壁としての機能性も重視された!
一説では信長公は単にこの壁を壁として寄進したのではなく、今後、前述の桶狭間のような戦いが起こった際、この熱田神宮を要塞にして敵の侵攻を防ごうと考えたのかもしれません。
理由は、この当時に造られた土塀にしては飛び抜けて頑強な造りをしているからです。
材料として、石灰を練り合わせた土と瓦を混在させることによって、耐火性、耐久性に優れた壁を作ることが可能であり、さらにちょうど鉄砲が戦闘に持ち込まれたはじめた時代でもあることから、幾多の銃撃にも耐えられる壁になっています。
鉄砲を戦に持ち込み、長篠合戦で見られるような「三段撃ち」を編み出した信長公だからこそ、いざというときのためにこのような強化築地塀を作ったのかもしれません。
熱田神宮・信長塀の場所(地図)
西門の鳥居をくぐり、正面に文化殿手前の南北に続く参道を歩き、更に鳥居をくぐって大楠を通り過ぎると見えてきます。